あぁるぴぃ千葉県支部だより43号


■特集 全国大会の講演内容■

★全国大会記念講演第二部 「心豊かに生きる」

視覚障害者総合支援センターちば 所長 高梨 憲司 先生
 こんにちは、ただ今ご紹介にあずかりました、高梨と申します。今、ちょっとお待たせ いたしましたのは、ワイヤレスマイクを手に持った方が落ち着くのです。襲われた時に防 御するには、何か手に持っていた方がいいかなと、そういうことが身についてしまいまし た。与えられたテーマは、たいへん大きなテーマでございます。私自身、皆さまと比べて、 決して心豊かに生きているわけではありません。一生懸命修行の途中でございます。
 やはり、俗世間に生きていますと、お金はあった方がいいです。ギャラも高い方がいい なぁと思います。妻もやさしい方がいいなぁと思っております。我が家にも妻が一人いま すが、今日は来ているはずがないので、申し上げるのです。私も視覚障害です。たぶん、 皆さんもご家庭で生活する中で、ご主人であれば奥さまが一生懸命、気を遣ってくださる と思います。
 うちの妻は園芸が好きです。今は猫の額ほどの花壇があります。それまでは家が狭かっ たものですから、バスケットに植木鉢を入れて天井から下げてありました。知らないで立 ち上がると、頭から水がジャボンとかかります。視覚障害の家庭は、そのような物はぶら 下げたりしないで、置き場所はだいたい決めておく、これがルールです。たいていの奥さ まはジャボンと水がかかったら「アラ、ごめんなさい。私が悪かったわ」と飛んで来て拭 いてくれるでしょう。そう期待しているのですが、我が家の妻はそうではないです。「気 をつけて立ちなさいよ。家が汚れるでしょ」。
 こういう場面に出会いますと「うちの妻はぜんぜん視覚障害者の気持ちが分かっていな い。家族にも分かってもらえない。そんな寂しいことがあるか」と一人で涙を流しながら、 チビリチビリと酒を飲むのが一つのスタイルです。でも私の妻は自分で気を付ければ避け られることを知っているから言うわけです。そんな妻ですから何とか自立ができました。 これも一つの愛情だろうと思います。そう思いますと、これほど冷たいのかと思いながら 酒を飲まなくてはいけないのが、こんなにいい妻なのかという想いになってきます。気持 ちは持ちよう、一つの出来事で首をつる人もいれば、笑って過ごす人もいます。同じ生き るのなら笑って過ごしたいと日頃から思っています。
 先程、お昼ごはんを食べていましたら、ある方が網膜色素変性症のご主人と来ていまし た。私どもの所で、生活訓練をしておりますので「先生の所で生活訓練をしたおかげで、 主人の視野が広がりました」とおっしゃいました。私ははたと気がつきました。網膜色素 変性症は視野が狭くなる病気です。それを「見えなくなってから視野が広がった」とはど う言うことなのか、まさにこれが今日のテーマだと思っております。先程、心豊かに生き るための努力の過程だと申し上げました。私自身がこれまでどういうことを体験し、いま どんなことを考えているのか、見方を変えれば視野が広がることをお話させていただきた いと思います。
 今日は千葉県の人ばかりではないと伺っております。ご承知のことも少し触れさせてい ただきたいと思います。また、視覚障害の当事者が多いと伺っております。支援をされて いる方々、ボランティアの方、あるいはご家族の方もいらっしゃいますので、たいへん言 葉が不適切で恐縮かと思います。これらの人たちには視覚障害の当事者のお気持ちも判っ ていただく必要もございます。あえて皆さんに申し上げにくいこともお話させていただく ことになるかと思いますが、お許しをいただきたいと思います。
 私は小学校二年生の時に、レスリング中のケガが原因で視力が下がりまして、高校生の 時に完全に失明しました。盲学校に入学することになり、学校に父親と行きました。面接 においでになった先生に、父親が「先生、うちの息子は目が見えなくなってしまったので すが、息子の将来はあるのですかね」と聞きました。そうしたら、その先生がご丁寧にお っしゃった言葉は「お父さん、心配要りませんよ。立派なマッサージ師にしてあげます」。 うちの父親は「私にとってたった一人の長男、マッサージ師しかないんですか」とこう申 し上げたんです。私もそれをそばで聞いていて、マッサージが決して嫌な仕事でもありま せん、社会的な評価も十分あります。しかし、一つしかないというのは子供ながらに非常 に気になりました。
 それだけではありません。千葉県以外の方はご存知ないかもしれませんが、最も新しい 市で南房総市があります。ここは大変高齢化が進んでいる所です。いまだに「介護保険を 使うのは世間に対して申し訳ない」という方がたくさんおられる地域です。うちの父親は 銀行員ですから非常に保守的な人です。銀行の行事に弟は連れて行きますが、私は絶対に 連れて行きません。世間をはばかっておりました。と言って、愛情がないかと言えばそう ではありません。
 私が大学に行きたいと申しましたら、父親に大反対を受けました。「分不相応なことを 考えるな」と怒られました。でも、大学を受験して受かることが父親に対しても自分の意 思表示になると頑張って合格したのです。入学の時に始めて父親が東京に出てきました。 教務課に行って授業料を払おうとしましたところ、教務課の担当から「お父さん、お子さ んの合格発表は見てきましたか」。父親がこう言いました。「見て来ないよ。受かってい るに決まっている」。その時、分不相応なことを考えるなということは、一般社会の中で 競争してしくじることをさせたくない、親の愛情だったのかなと初めて知りました。その ように、愛情はありながらも世間をはばかるのが当時の風潮でした。
 大学に行きましたが、教科書もありません。当時はボランティアもそれほどいませんか ら、有償のボランティアにテキストの点訳を頼みます。一冊の教科書が当時のお金で10 万円かかります。10万円かかるのは金の工面ができれば何とかなりますが、どうにもな らないのが3年生のゼミに使う教科書を頼みましたら、できてきたのが4年生のときです。 これでは何にもなりません。10万円捨てるだけ。やむなく友人に頼むわけです。
 私は英文学科です。英語が好きで行ったわけではなくて、英語は大の苦手でした。英文 タイプができれば、ハンディを少しでも克服できるかな、と思って英文学科を選んだので す。これはたいへん愚かでした。辞書を引かなければならないレポートばかり出ます。辞 書がないので、友人に頼み一緒に図書館に行きます。私は読めないので、そばで居眠りを して、友人がレポートを書いてくれるのを待っているのです。できたら「ありがとう」と 教授に持って行きます。私は何もしてはいないのにAが付いてくるんです。ところが手伝 ってくれた友人は時間がないので、BかCしか取れないです。
 そういうのを見ていますと「私は何のためにいるのか? 自分で勉強をしているわけで はない。友人の時間をいただいて成績だけを取っている。友人は私を手伝うことで時間が なくなる。自分がいなければ彼はもっと勉強ができるのではないだろうか」。4年生の頃 はそういうことを一生懸命考えておりました。授業に行きますと、英文学科ですから女子 学生ばかりです。4年生にもなると、教授が来る前には、どこの男の子がハンサムだとか、 嫁に行くならどこの家がいいとか、そんな話しばかりしています。私にとっては全く無縁 のことです。本当に死ぬか、死ぬまいか、思案しました。
 今の職場は千葉の稲毛にありまして、そこに重症心身の子供たちの施設があります。盲 学校が近くにありましたので、私は子供の時に何度か遊びに行ったことがありました。で も、そこの子供たちの生活を見るのがとても耐え難くて、ここの施設にだけは就職すまい と思っていたのです。自分がいざ生きる意味が、本当にどこにあるのかを考えた時に「自 分よりももっと障害が重い、しかし懸命に生きている。ここに行ったら何か学ぶことがあ るのではないか」そう思って門を叩いたのが、今の法人に勤めるきっかけなのです。 ですから、今でこそ偉そうに福祉などと言っておりますが、福祉をやりたくて自分で選ん だわけではありません。自分の生きる道を考えるために入った結果がこうです。そこで働 いているうちにそれなりの立場はできましたが、それでも本当に自分に生きる価値がある のかどうかをいつも疑問に思っておりました。
 ある時、私のもとに1人の女性から相談の電話がありました。この女性はだんだんと視 力の低下をきたしておりました。社会的に非常に地位の高い裕福な方の奥さまでいらっし ゃいました。電話の向こうで彼女が泣きながら言いました。「私はだんだん目が見えなく なってきて将来が心配なんです。そこで何とか自分で将来を考えたいと思って主人にその 話しをしました。そうしたら主人はこう言うんです。『家はお金には困っていない。お手 伝いを雇ってあげるから安心して家の中で暮らしなさい。それより一つお願いがある。お 前が白い杖を持って家の周りをうろうろされたのでは家族皆が困る。だから家の中で過ご してくれ』。先生、夫婦一心同体と言いますけれども、私は主人に人生を売り渡したわけ ではありません。生きていくのは自分です。だから自分で納得のいく人生にしたい。でも 家族から反対されたら、やはり私は死ぬしかないのでしょうか」。こうおっしゃいました。
 私は「相談に乗りましょう。おいでになって下さい。もしご家族とおいでになるのが難 しければ、うちの職員が迎えに行きましょう」。そう言って来ていただきました。そして 「うちの施設の子供たちは障害が重いので、直接お話はできません。でも頑張っています よ。できたら励ましてくれませんか」と施設をご案内いたしました。その時に、中学生位 の少年が廊下の真中で大暴れしながら、駆けつけた女性職員のスカートの裾を引っ張って 困らせていたのです。応接室に戻った時にその奥さまから「あの子は何であんなことをし ていたのですか」と質問が出たんです。私は答えにつまりました。「よく判りません。で も何か訴えようとしていたのでしょう。それは判っているのですが、本当の意味がわかっ てあげられない。たいへん忍びないことです。あなたは、人間が精神的な破綻から逃れる 最後の自由が、自ら死を選ぶこと、これは人間にしか与えられていない自由だと。それを 実行するかどうかを思案されて、私の所にいらしたのですね」。「はい、そうです」。 「あの子供はお腹が空いたのかもしれないし、頭が痛いのかもしれない。しかし言葉がな いので、自分から話をすることができない。目が見えないから職員がどこにいるのか判ら ない。歩くことができないので、探し回ることができない。ただ、大騒ぎをすれば誰かが 来てくれることを経験的に知っている。そこで、来てくれた職員のスカートを引っ張って、 一生懸命自分の気持ちを訴えている。おそらく、彼は自分の置かれている境遇を理解して いないでしょう。人間だけに与えられている自由、これも行使する力は持っていないでし ょう。それでも彼は、いつ通じるか判らないけれども、手に触れた物を通じて自分の気持 ちを訴え続けている。彼の毎日は生きようとすること、そのことです」と申し上げました ら、「ごめんなさい」と言って帰って行きました。
 それから半年ほどしてその奥さまのことを風のたよりに聞きました。あれほど反対して いたご家族を押し切って、施設で白い杖を持って歩行訓練をしていることを聞きました。 その時に、彼女を死から救ったのは誰だろうか? 紛れもなく、本当に生きる価値がある のか分からないと思っている重度の重症心身障害の子供さんです。この子が生きることの 意味を一瞬の内に教えました。私は解説をしただけです。
 だとすると、人の価値は何かと議論するけれども、それは他人が言うことであって、本 当の価値とは懸命に生きようとすることではないのだろうか。むしろ問題なのは、そうし た生きざまをわがこととして共感できるような感性を持たない人たちが多すぎることでは ないのだろうか。その時、私はその少年から「自分は、自らの生き方を説明することはで きない。しかし、誰かがそれを説明してくれるなら、自分たちも大きな社会貢献ができる。 それをやるのはお前ではないか」と言われた気がするのです。
 私は二十数年前、今とは違い厳しい時でしたが、千葉市内の小中学校で福祉教育を自分 にできるボランティア活動として始めさせていただきました。そういう視点で物事を見ら れるようになりましたら、いろんなことが見えてきました。私のいた施設は本当に障害の 重い人たちばかりです。待ちに待ったお子さんが重度の障害児で生まれてくるわけです。 親御さんにとっては、これほど辛い不幸なことはないと思います。しかし、よく見ている と、辛いはずのお父さんとお母さんが、障害児をかすがいとして懸命に生きておられます。 決して障害児が生まれたことを悔やんではいません。むしろ誇りに思っています。
 私どもの施設に心臓病で入所されていたお子さんがいらっしゃいました。この方は心臓 の奇形でしたので、私たち職員はいつまで命が持つだろうかが心配の種でした。お母さん が訪ねてくるたびに「先生、この子がいるから、私たち夫婦は別れないで今があります。 かすがいです。夫婦の責任としてこの子だけは看取りたい。どんなことがあってもそうし たい。それは誓い合っております」。その子は入院することになりました。1年入院され ておりましたが、東京から千葉までお母さんは毎日通っておられました。高齢のお母さん でしたので「お母さんが大丈夫かな」ということがご本人の問題よりも気にかかっており ました。とうとう最後を迎えまして、東京のご自宅にお通夜に参りました。お父さんが息 子にしがみついて「ありがとう、お前はお母さんのために充分な時間を取ってくれた。も うこれからは楽になっていいよ。本当に幸せになっていいよ」とおっしゃいました。本当 だったら何で先に死んだと息子を責めるかもしれません。お母さんが私に「先生、病院の 看護師さんからお手紙が来ています。読んで下さい」。それには「私は看護師として、お 母さんが息子さんに日々接する姿を見せていただき、本当の愛情とはどうあらねばならな いのか、看護師として最後を見届けるためにはどうあらねばならないのかを、身をもって 教えていただきました。ありがとうございました」と書いてありました。
 私たちは子供を育てるとき、山登りに例えますと、できるだけ高い頂を目指して最短距 離を登らせようと一生懸命尻をたたきます。子供は苦しいから逃げようとします。それを さらに叱咤激励します。親が鬼の顔に見えてきます。でも、障害児を育てている親御さん はそんなことはしません。それは何の役にも立たないことを知っています。小さな峠を登 るたびに後ろを振り返って「良くここまで歩いてきたね。もう少し休憩したら歩いてみよ うか」。そういう想いで育てています。何か子育てに非常に学ぶべきものがある気がしま す。
 姜春子さんという方がいらっしゃいます。この方が「律君、こっち向いて」という本を 書かれています。律君は自閉症のお子さんです。ご主人とお兄さんと妹の5人の生活です。 自閉症は、ご存知かと思いますが、2歳までにおおむね発症します。良くわかりませんが、 脳の微細な傷が原因などとも言われております。基本的には周囲の状況に自分を合わせる ことが苦手で、環境が変わるとパニックになります。このお子さんを家族4人で支える中 で「家族みんなが一度は律君の首をしめたいと思ったことがあります」と書いています。 それ程、自閉症の方を家族が支えていくのは厳しさがあります。発作的な行動を起こしま す。隣近所にご迷惑をかけることも多々あります。
 姜さんがある外出先から家に戻ってきて玄関を開けたところ、異様な匂いがしました。 またかと思って覗き込んだら、部屋の壁一面がウンチで塗りたくってありました。これは 急いで掃除しなくてはと思ったら、中学生の妹さんが一生懸命拭いていました。私は娘に は悪いと思ったのですが、娘の姿を見てそっと柱の陰から様子をうかがっていました。娘 が掃除をし終わって雑巾を片付けた後、洗面所の前でそっと涙を拭いていました。それを 見て私は娘に「ありがとう。この子はきっとこの経験を自分の栄養として成長してくれる。 そう感謝して手を合わせました」とおっしゃっておられます。
 障害があることは一見たいへん不幸なこと、できればないことでありたい、と思うこと が多いと思います。しかし、本当にそうだろうかと思いますと、別の側面を持っています。 決してマイナスばかりではない様に思います。
 もう一例をお話いたします。うちの法人で触法少年、法律に触れてしまった少年少女、 例えば売春、覚せい剤、あるいは恐喝、軽い傷害事件を起こして、保護監察になっている 16歳から24歳までの少年少女です。24歳が少年少女かと言いますと、刑法の分野で は少年少女と言います。その子供たちの一日体験ボランティアを受け入れております。法 務省の保護監察事務所から依頼がございまして、私が当時受け入れ窓口をしておりました。 一瞬、躊躇しました。うちの利用者は障害が非常に重いです。障害のことを全く知らない 少年少女が来て、トラブルを起こしたらどうしよう。でも私も今申し上げたように、さま ざまなことを障害児から学んできました。もしかしたら何か得るものがあるのではないか、 そう思って最初は身体障害の更生施設の方にお受けいたしました。この場合は、何とかト ラブルを利用者の方が避けてくれるだろうと思ったんです。ところが駄目でした。なぜな らば少年が「やあ、姉ちゃん、こっちに来なよ。遊ぼうよ」。うちの職員を自分の連れに しようとします。これでは何の役にも立たないと思いました。
 2年目から1番障害の重い人の施設でボランティアしてもらいました。ある時です。窓 拭きをしていたボランティアの16歳の少女をうちの利用者の青年がつかまえてしまった んです。別に性的な意味を持っているのではありません。本人は目も見えないし言葉もな いですから、本人なりの挨拶です。しかし、少女が青年にしがみつかれるわけですから、 私たちは見て一瞬どうしようと思いました。ところが、少女はつかまれたままじっとして 涙を浮かべておりました。反省会の時に本人に「あなたはあの時どうしていたの」と聞き ましたら、彼女は急に泣き出しました。「先生、私は学校でも家でもいつも粗末にされて 来ました。ですから教師や親に仕返しをしてやりたい。そんな思いで覚せい剤に手を出し ました。いま保護監察になっているのは自分の責任ですからやむを得ないことです。私は これまで自分ほど不幸な人はいないと思っていました。でもこの施設に来て、自分の責任 でも何でもないのに、あれ程重い障害を受けながら、一言の苦情を言うでもなく、一生懸 命生きています。私は間違っていました」としきりと泣いていました。
 この方から1年後に、保護司さんの手紙と一緒に添えられて、次の様な手紙が来ました。 「先生、私はいま無事に保護監察を終わって、福祉の分野に入りたいと思い、定時制の学 校に通っています。先生の所で体験したことは決して忘れません。いつの日にか福祉のプ ロとしてもう一度お会いしたいと思います」と書いていました。保護司さんが一年かかり で一生懸命更生を促したことを、もの言わぬ障害者が一瞬に気づかせてくれました。まさ に劇的です。少年少女の場合は、罪を犯しても非常に繊細なものを持っています。少し方 向性を誤っただけです。彼女にそれだけの感性があったことと思います。
 だとすると、私たちはこの感性をどうやって磨くのかが大事になって来るような気がし ます。皆さんにお尋ねしたいのですが、今日、男性と女性がいます。それから懐の寂しい 方、BMWに乗られる様な方もいます。皆さんは生まれる時に、男性か女性か、貧困な家 庭か裕福な家庭か、選ばれた方いますか? いろんなところで聞くのですが、選んだ人は 未だにいないです。生まれる時は男に生まれるか女に生まれるか、障害に生まれるか、こ れは神のみぞが知ることで個性です。
 午前中、200人位の方がいたそうですが、200人いてだいたい105人は男という くじを引くんです。95人は女というくじを引くんです。そして10人は障害者というく じを引かなければならないです。健康な方は誰かがそれを先に引いてくれたからです。い わゆる障害は一つの個性、ただ個性には皆が望む個性と望まない個性があります。男か女 かは望む人と望まない人があるでしょう。でも障害という個性は自ら望む人は少ないと思 います。私が知っているのは一人しかいません。自ら望んだのは誰だか解かります? 和 歌山のカレー事件の林さんです。あの方は障害の真の意味でなくて、保険金のために望ま れました。一般的には望まないです。
 それをマイナスの個性だと考えると、でも頭が薄いのも、足が短いのも、胴体が太いの も、これは皆マイナスの個性です。マイナスの個性だろうと個性である以上、他人にはな いものです。これを活かして生きるのが大事だと思います。人は太いのは望みません。で も太くなければ商売にならない仕事があります。相撲は体重制限がありませんから、太く なくちゃ勝負にならないです。
 それからまだまだいろいろあります。身体の小さいことをうまく活用している方、だっ たら視覚障害だってうまく活用すればいいじゃないですか。人にはない個性ですからね。
 実は、先天性と中途障害の方がいらっしゃいます。全国で平成13年の調査によります と、視覚障害は30万5800人います。身体障害者の中の構成比9.3%、聴覚障害と 並んで少ない障害です。特徴的なことが三つあります。一つは重度高齢化が他の障害に比 べて顕著です。身体障害者の平均の高齢化率は50数%です。ところが視覚障害は60数 %、3人に2人が65才以上の高齢者。重度化率は身体障害者の平均は約48%、視覚障 害は59.5%、いずれも10ポイントほど高いです。
 二つ目の特徴はどの身体障害も、知的障害を除きますと、中途障害が増えています。視 覚障害は顕著です。98%が中途障害です。平成12年の身体障害者手帳の台帳から調べ てみますと、千葉県内で視覚障害の手帳を交付された方は平成12年1年間で613名い ました。18歳未満の児童は13名しかいません。600名は中途障害です。その原因は とみますと眼病では白内障と緑内障など多いです。失明に至る恐れのある眼疾患の第1位 は糖尿病網膜症です。この中途障害がこれだけ増えたことで、視覚障害の世界では点字を 指で読める方が9%しかいなくなりました。
 三つ目の特徴は、一度は死を考えたことがあると答えられる方が他の障害に比べて極め て高いです。これはどうしてだろうかと考えますと、視覚障害が障害の中で最も重い疾患 だという認識が社会の中にあります。その背景になっているのは、視力を失ったこと、失 うことの不安と、将来の見通しが立たない、特に職業がないという現実の厳しさだろうと 思います。
 私は専門学校等で障害者福祉を教えています。学生にわざと「障害は自分で選べないけ ど今日だけは選択を許すから、もし最重度の障害になるとしたら何を選ぶかい?」と聞き ますと、第1位にあがって来るのが肢体不自由です。どうしてか聞きますと「車椅子生活 になるかも知れないが、バリアフリーになっていけば結構動けるし車の運転もできる。目 が見えるから楽しみもある」。たまに変わった奴がいて、この間聞いた時には「知的障害」 と言うんです。「なぜ?」と聞きましたら「知的障害は頭が悪い俺と同じだ」と言うんで す。こういう方が介護士になって、将来我々の下の始末をするんですから、教える方も楽 じゃないです。でも視覚障害と選ぶ人はいないです。先天性の障害の方は、盲学校で教育 を受けて職業を身につけて、社会に出て働いて家庭を持って行きます。ですからハンディ は大きいですが、障害は周囲の人たちのアドバイスによって、知識として次第に受け入れ ていきます。ある面努力すれば、一般の方と同様の方向が出てきます。ところが中途障害 の場合は、障害を負ったことで仕事を失い、友まで失い、家庭まで失う方が多々見られま す。要するに先天性の方とは逆行するんですね。
 中途障害の方が障害を受容していく過程は、犯罪被害で突然大切な家族を失ってしまっ た遺族、あるいは震災等で大切な財産を一瞬の間に失ってしまった方の、悲しみの心から 立ち直って行く過程と非常に良く似ています。
 最初は障害になったことを信じない、一心に治ることに期待をする時期があります。私 は、この時に一番大切なことは、医師の役割だと思っています。本当に治らないものなら ば、医師がきちんと告知をしないと、次のステップには進まないです。気の毒ですが、ご まかしていたのでは、次のステップには進まないです。ある女性は10年間に20回手術 をしています。眼圧が上がって痛いのです。奥さまですが、ご主人と子供を放りっぱなし です。私は友人ですから「いい加減に目玉を取ったら」と言いましたが、本人は諦め切れ ないです。
 次のステップが障害について認めることです。でも認めたくないですから、障害者にな ってしまった自分が呪わしい、そしてその気持ちに十分寄り添いきれない家族が怨めしい という時期です。この時期は、人によって千差万別ですけど、短い方でも2〜3年、長い 方は10年近く続きます。家族もご本人も厳しい時です。私の知っている方の中でも死の うとしている本人とそれを止めようとした家族と争いになって、七転八倒している方もい ます。
 そして絶望の時期が来ます。これが別の形で出る場合もあります。絶望しますとうつ病 になり易い、うつ状態になります。家族と顔を合わせるのも嫌だと閉じこもり現象が起き ます。実はこの時、家族は心配ではあるが、幾分気分が楽になります。葛藤を避けるので す。でも、これは危険な兆候でもあります。
 そしていつの日にか自らの有り様に気づいて、前向きに歩き始めます。この歩き始める 時期に早い人と遅い人があるんです。家族のいる方、自分の人生の価値を心の豊かさに置 いている方が早いです。物欲の強い方は駄目です。なぜかと言うと、お元気な時には障害 を「働かざる者、食うべからず」という意識で見ています。その存在に自分自身がなって しまい、自分が疎ましくて呪わしくて、ここから抜け出せなくなってしまうのです。
 ところで、私たちは何のために生きているのだろうか。年をとってきますとだんだんそ ういうことを考えるようになりました。若いうちは出世をしたい。地位があった方が人を 動かす優越感があります。金もあった方がいいです。しかしよく考えてみますと、金は使 ってしまえばおしまいです。地位もあった方がいいが、議員さんは落選すればただのおや じさん、おばさんかもしれません。最後まで残るのは自分の知識と心だろうと思います。
 よく人生を弾頭弾と例える方がいます。若いうちは空に向かって上昇していく、そして 中年になると水平飛行になります。高齢になって着弾地を求めて下っていきます。これは 小説を書く時も同じです。最初は書きなぐり、推こうし、本当に自分の言わんとすること を取捨選択していきます。人間はそうしてみると生涯幸せを求めて生きていくのだろうと 思うのです。成長です。20代までは身体的成長、それ以降は知的成長、最後は精神的成 長です。
 こうして考えてみますと、幸せとは人生の最後の段階、もし自分で意識できるならば、 ご臨終の時に自分の人生を振り返ってみて「十分とは言わないけれども、自分なりによく 頑張って生きてきたな」。有森裕子さんが「自分をほめてあげたい」と言いました。これ は素晴しい言葉だと思います。自分を振り返って自分をほめてあげられたら、これほどの 幸せはないだろうと思うのです。
 そういう幸せはどこからもたらされるか。人生の過渡期に、悲しみ、苦しみ、喜び、い ろいろございます。喜びばかりでは人生がほうけてしまいます。悲しみばかりでも心がす さんでしまいます。苦しみや悲しみが程々にあって、そして多くの苦しみ悲しみの中のち ょっとした光が大きな喜びになります。こうしたもののひとつ一つが私たちの大切な栄養 素になっていくのだろうと思うのです。
 私はボランティアの研修でよく言うのですが、ボランティアは人を援助するつもりでや っているかもしれません。しかし、本当はそうではないのです。視覚障害の世界ですと、 中途障害の90%近い方が一度は死を考えたにもかかわらず、1%も首をつってはいない です。なぜか。懸命に新たな道を模索し、生きる意味を見出して、どん底から這い上がっ て来ています。ボランティアの皆さんは自分では辛い体験をしたくはないかもしれないが、 ボランティアを通じてこういう人たちの生きざまの中から、多くのことを学ぶことができ ます。ボランティアの醍醐味は人の力を自分の力として生きていく、栄養素を貰うことで はないだろうか、そうあって欲しいと申し上げるのです。よく「ボランティアは、するも の、されるもの」と言いますが、このように考えると障害者は、ボランティアによって支 援を受けます。しかし、決して支援を受けているだけではなく、ある意味で皆さんにしか できない大切なボランティア活動をしていると思うのです。
 うちの施設におられる中途視覚障害の方が私にこんなことを言いました。「うちの施設 にいろんな人がボランティアに来てくれる。実習に来る。それはいいことかもしれない。 しかし、俺に言わせてもらえば、俺たちは教材じゃないんだよ。どこの馬の骨か知らない のが来て『見えなくなって気の毒ですね』。冗談ではない。こっちだって何とかしたいと 思ってやっているんだよ。俺たちが彼らの家に行って『家庭教師です。あなたの過去を教 えてください』。そんなこと許されるのかよ」。私はこう言ったのです。「おっしゃるこ とはその通り。しかし、障害者の生活はまだ社会の人々には理解されていない。本当に理 解されなければ社会は変わっていかない。だとしたら、これはあなたたちにしかできない ボランティアではないだろうか。気の毒だけど、辛いだろうけども、自らの人生を教材と して提供することで教師や福祉の専門職を育てている。そう思ってもらうことはできない かな」と申し上げたら「よし、わかった。それだったら協力しよう」と言ってくれました。
 私は「障害者差別をなくすための研究会」で昨年1年間、副座長ということで勉強させ ていただきました。差別と思われる事例を集めましたら、いろんな事例がありました。時 間がございませんがご紹介しますと、聴覚障害の方がスイミングスクールに入ろうとした ら断られました。理由は「プールの中で気絶したら声をかけても話ができないから危険 だ」と言います。一般的にはそう考えられるかもしれませんけど、よく考えると気絶して いたら耳が聞こえようが聞こえまいが話はできません。まして、プールの中へ沈んでいる 人と話しなんかしていられません。すぐ助け出さなくちゃいけない。でもプールの監視員 は真剣にそう思っています。
 ある知的障害のお子さんを育てているお母さんは、市民から「お母さん、明るいですね」 と言われます。「障害児を育てていると明るくてはいけないの」。こう言うのです。これ だって市民は「あれだけ重い障害児を育てている。たいへんだろうな。それなのにあんな に明るくしている。私にはできないことだ。すばらしいな」。そう思っておっしゃってい るのでしょう。確かに差別と思われる事例がたくさんありました。だけど多くは知らない がために起きています。偏見、誤解、遠慮なのです。これは知ってもらうことから始めな いといけないです。
 私は「差別の研究会」の条例特例の中に一つだけ私の主張を取り入れていただきまし た。「県民の役割」というのがありまして、県は市町村に対して支援をします。市町村が 自主的に条例に従って差別をなくすための取り組みをしていきます。これは当然のことで す。県民は障害者が発信する生活のしにくさについて、発信しやすいような環境を整え理 解する努力をします。これは一般の条例に当たり前のことです。「県民が障害者について 理解をしなさい」ということです。私が主張して入れていただいたのは「県民が障害者と なったときは、自らの生活のしにくさを周囲の人たちに伝える努力をすること」です。
 これからの時代、障害者が周囲の人たちの支援を待ち、そして福祉の進むことを願い、 受動的ではいけないということです。同じ県民だとしたら、自らのできることを通じて、 地域社会づくりの主体者とならないと共に生きることにはなり得ないと思います。そう考 えると、周囲の人たちに障害者の生活のしにくさを理解してもらうことは、障害者でしか できない大切な仕事だろうと思います。障害者の理解が広まることは、社会にあるさまざ まな偏見や差別をなくしていく第一歩でもあると思うのです。女性問題、非差別部落の問 題、あるいは日本に住んでいる少数外国人の人たちの生活のしにくさ、そうしたことに皆 が目を向けて共にどうあったらいいのかを互いに真剣に語り合い、ひとつずつ解決の方法 を模索していく、この主体者に我々がなることが今いちばん求められている時じゃないで しょうか。
 阿部よし子という方が「合い言葉はノープロブレム」という本を書いています。岩波書 店から発行されています。自閉症のお子さんをカナダのロッキーに連れて行った時のこと を書いております。その結びのところに詩が書いてあります。自分のお子さんが障害者で すので「彼らが核となれば、かけ橋となれば、人は優しくなる。地球はもっと住みやすく なる。そして、いつの日にか福祉とは障害のある人のためのものではなくて、私たち皆が 幸福になるためのものであることが分かってくるでしょう」。
 まさに障害者がかけ橋になることで、社会を変える大きなチャンスと、役割が期待され ているのではないかと思います。その時にご本人が努力すると、ご本人が変わるだけでは なくて、家族がこのことをどう受けとめるかということです。障害をお持ちのご家族に対 して、家族は一般的に過小評価をするのです。昨日までできていたことができなくなりま すから、何もできなくなってしまったと思っています。これはその方の自立を阻害するこ とになってしまいます。家族が障害のある本人と真正面から向かい合って、遠慮なく言え るようになるのが本当の家族だと思います。
 視覚障害者になった時の生活訓練は一般的に施設に入所して行います。施設に入所して いる間に家庭が壊れてしまうケースが多々見られます。障害はご家族と共に苦しみ、悲し みを分かち合い、そして得た喜びほど大きいです。それこそ本当の家族だろうと思ってい ます。だとしたら、家族と共にリハビリテーションを受けられる仕組みがどうしても必要 です。そして、リハビリテーションは施設で行うことも重要ですが、自分の家庭から周囲 に広がっていくことが大事です。東京で歩行訓練を受けても房州の山の中は歩けません。 交通環境が違います。私たちは障害者のそういう願いと、私どもの支援者の願い、これを 行政が受けとめてくださって、平成7年から千葉県では全国に先駆けて画期的に訪問で生 活訓練をやっております。私たちのところでもやっておりますので、そういう方がおりま したら、ご相談いただきたいと思います。
 ある会合に行きました。奥さまが「うちの主人はほとんど見えないにもかかわらず、家 の近所を歩く時に杖を持ってくれない。家族は心配でならないから、ぜひ持って欲しい」 とこう言ったのです。視覚障害のご主人が「いや、俺は家族のために持たないんだ。家族 が『障害者がいる』ということを知って欲しくない。それは家族にとって気の毒だから持 たないんだ」とこうおっしゃったのです。 私がアドバイスを求められまして「失礼ですが」と申し上げました。「ご主人は家族のた めに持たないんだとおっしゃっておられる。それは家族の気持ちが分かっていない。本当 の家族の気持ちは障害であろうがなかろうが、堂々と胸をはって生きて欲しい。それを求 めておられる。あなたは家族のためと言いながら、本当は自分が持つ勇気がまだ持ててい ない。自分を騙しておられませんか」。その後、ご夫婦でさんざん泣いておられて、帰り がけに電車で一緒になったら「私たちは夫婦で初めて本当の話ができました」とおっしゃ っていました。
 本当の理解は障害の部分を配慮したうえで、まともにけんかができることではないかと 思います。見方を変えれば、幸せはいくらも転がっているということで、お話しを終わら せていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

○司会 視点を変えて、生き方をもう一度見つめ直してみるという意味で、大変有意義な お話しをどうもありがとうございました。


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