あぁるぴぃ千葉県支部だより51号


■投稿■

★熊本旅行記(第2回)

市原市 石川 隆
◇第17回全国盲ろう者大会2日目 8月18日(土)
 朝6時に起床。7時30分に朝食。朝の食事にしては豪華でした。しかもご飯が美味し かったので2杯もおかわりしてしまいました。腰を痛めているというのに食欲は旺盛でし た。
 8時30分にホテルを出発し、会場の熊本学園大学まで貸切バスで移動です。全国盲ろ う者大会の会場は熊本学園大学のホールです。今年4月に建てたばかりとのことで、とて もきれいなホールでした。
 今年も友の会コーナーがあるので、千葉は友の会の展示とパンフレットを作ってきまし た。会場に着いて早速、3階の友の会コーナーに行き、千葉盲ろう者友の会の展示を貼り ました。しかし、今年の友の会コーナーに展示していたのは千葉と静岡だけでした。
 3階の友の会コーナーで展示の準備をしていたので、分科会は途中からの参加となりま した。分科会は、午前・午後とも「全国の盲ろう者の生の声を聞く」に参加しました。前 日はあまり寝てなかったせいか、眠い目をこすりながら分科会を聞いていたので、覚えて いない部分もあるのですが・・・
・盲ろう者と分かるような白杖を作ってほしい。
・障害者自立支援法が始まってから自己負担が厳しくなった、廃止してほしい。
・アメリカの「ヘレンケラーナショナルセンター」と同じような、盲ろう者向けのリハ  ビリセンターを日本にも作ってほしい。
などの意見がありました。
 お昼は仕出し弁当でした。3階の友の会コーナーでお昼を食べたあと、機器展示コーナ ーと、盲ろう者が作った手芸品や竹細工の作品展示コーナーを見に行ったのですが、人が いっぱいでした。
 午後は、広島盲ろう者友の会のOさんが作業所についてのお話と、福島智さんが自立支 援法についてのお話がありました。最後に、午前の意見をまとめ、盲ろう者のニーズや特 性を踏まえて、盲ろうという障害を一つの独立した障害種別として認めてくれるように、 国に対して決議文を提出することになりました。
 分科会はその他、長崎県のろうあ者の女性が被爆を体験した「被爆体験を聞こう」、柳 川リハビリテーション病院眼科、高橋広先生の「眼科における盲ろう者への支援〜上手な 眼科へのかかり方〜」がありました。分科会も終わり、貸切バスで宿泊先のホテルに戻り ました。
 夕食後、部屋のベランダでしばらく休んでいたら、ホテルの係りの人が布団を敷きに来 ました。2人の係りの人がてきぱきと布団を敷いていました。いままでに泊まった旅館で も、係りの人が部屋に来て布団を敷いているところを見たことがなかったので、とても珍 しい光景でした。
 同室の千葉の盲ろう者(2名)が広島の男性の通訳・介助者のMさんと一緒に先にお風 呂に行ったので、私は一人で留守番をしていました。しばらくして3人が戻ってきたので、 通訳のMさんにお願いして、私もお風呂に行きました。
 お風呂は6階の大浴場にあります。お風呂から出たら、声をかけられました。私は補聴 器を外していたので誰に声をかけられたのかわかりませんでした。通訳のMさんに聞いた ら、私に声をかけてくれたのは、昨年の大阪でお話したことのある広島の全盲難聴の盲ろ う者でIさんとわかりました。
 通訳のMさんが、「いまからIさんのいる部屋に行きましょう」と、私をIさんのいる 部屋まで連れて行ってくれました。そして、1年ぶりに広島のIさんと再会を果たし、1 時間くらいお話をしました。Iさんがいる部屋には、ろうベースの盲ろう者と、ろうの通 訳者がいるだけで、音声で話せる人はいないとのことでした。
 またまた通訳のMさんが、「千葉の盲ろう者は全員音声なので、石川さんのいる部屋に 行きませんか」と、Iさんと一緒に部屋まで戻りました。千葉の盲ろう者のKさんは寝て いましたが、もう一人の盲ろう者のOさんが起きて、Iさんとお話をしていました。そし て、時間も24時を過ぎたので、Iさんは自分の部屋に戻っていきました。
・・・というわけで、2日目が終わりました。


★アンニョンハセヨ! 私の初めての海外一人旅(第2回)

千葉市 佐々木 貞子
 「アンニョンハセヨ」とは、「こんにちは」という韓国語です。私は9月4日から4泊 5日で韓国の首都ソウルに行ってきました。初めての海外旅行でしたが、ツアーとはいえ、 サポートが約束されていない一人旅。私にとって小さな冒険旅行でした。
 この旅行の目的は、DPI(障害者インターナショナル)の世界会議へ参加するためで す。DPIとは、身体・精神・知的など、障害の種別を超えて結集した障害のある人々の 国際NGO(非政府組織)です。
URL http://www.dpi-japan.org/
 これまでの社会は、障害のある人の存在を考慮せずに作られてきました。それは社会の 仕組みや人の態度などあらゆる場面で、大きな障壁として私たちの前に立ちはだかってい ます。さまざまな人がいて社会は成り立っていることを多くの人は忘れがちです。障害は 個人の問題というより、社会環境の不備であるという視点も、いまだ希薄です。そのため 障害を持ってしまうと、当たり前に暮らすことさえ難しくなり、まるで劣った立場に転落 してしまったような錯覚さえ抱いてしまうのです。
 また、障害のある人の暮らしは専門家や家族、周囲の人々にゆだねられ、その意見は本 人の思いより優先されて来ました。DPIは障害のある本人、当事者である自身の意思・ 決定に基づいて生きていくことを目指し、社会のあらゆる場面への完全参加と平等、機会 均等と恩恵ではない権利の確立を求めて活動しています。
 国連は1993年、「障害者の機会均等化に関する基準規則」を策定し、さらに昨年 12月、障害のある人の権利条約を採択しました。ここに至るまでには、DPIをはじめ とする世界の障害のある人自身と関係者の、草の根の活動と国連を舞台にした粘り強い努 力があったのです。権利条約の採択は、平等を達成するための長い道のりへの大きな一歩 と云われています。
 機会均等とは、社会の仕組みやサービス、活動、情報等の社会環境を、すべての人、特 に障害のある人が利用できるようにすることです。
 平等とは、個人それぞれのニーズは等しく重要で、そのニーズが社会の設計の基礎とさ れなければならず、すべての人に参加への平等の機会を保障しなければならないとありま す。
 そして障害のある人は社会の一員であり、地域社会に当たり前に暮らす権利を持ち、教 育、保健、就労、社会サービスの中で必要な支援を受けなければなりません。平等な権利 を獲得するに従って、平等な義務を負い、障害のない人と共に社会人としてその役割を果 たすのです。
 障害のある人の権利条約は、障害のある人自身の権利を実現させるだけでなく、障害問 題を通して、この社会の、すべての人の人権確立に貢献することでしょう。この韓国大会 のテーマは「私たちの権利、私たちの条約、そしてすべての人のために」です。
 世界会議の初日、9月5日は、早朝の出発となりました。昨夜はホテル着が午後10時、 その後飛行機で出会ったツアーの参加者たちと話し込み、就寝はかなり遅くなりました。 私は睡眠不足を自覚しながら、簡単な朝食を取り、ホテルで同室になったTさんと送迎バ スに乗り込みました。
 Tさんは大阪から単身で参加された方、看護学校の先生です。学生時代、視覚障害の人 へのリーディングボランティアをきっかけに障害のある人の運動にかかわったそうです。 「時々ここに参加して元気をもらうのよ」と言っていました。
 ソウルの中心、南大門近くのホテルから会場までは1時間余り。会場のキンテックス国 際会議場は人、人、人・・・。障害のある人、障害のない人、さまざまな人種・民族の人 たちがいました。中にはサリーのような民族衣装を着た女性たちも。障害といっても車い すに乗っている人、視覚や聴覚、その他さまざまな障害を持つ人が集まっています。71 カ国・地域から、2700名以上が参加しているのです。
 私たちは先ず、参加登録の長い列に並ぶことになりました。やっと順番が来たものの、 何の間違いか、Tさんの参加申し込み記録がないことがわかりました。このままでは入場 することもできず、受付と交渉しようにも言葉が通じません。そこで私も一緒に広い会場 を、数少ない日本語の通訳ボランティアを探して走り回ることになってしまいました。右 も左もわからない初めてのところ、これで二人がはぐれては大変です。
 やっと調達したボランティアとたどり着いた未登録者のコーナーも人が一杯、ごった返 しています。みんなトラブルを抱えて少し興奮気味。あちこちで韓国語や英語、その他の 言葉が飛び交っています。
 「マア、さすがに世界会議って、体力がいるところね」
 私はぼんやりと成り行きを見守りながら「未知との遭遇」というような不思議な気分を 感じていました。開会式はもうすぐ始まります。


★「あぁるぴぃ」は、「処方箋」

松戸市 SY
 「あぁるぴぃ50号」おめでとうございます。支部長をはじめ役員の皆さま、ボランテ ィアの方のご協力により、今日まで継続して行く過程では、私には想像も出来ない大変さ があったこととひしひしと感じています。私も微力ながら少しでも皆さまの役にたてるよ うに、これから頑張っていきたいと思っています。
 思い起こせば初代の濱田支部長時代に入会させて頂きました。自分と同じ悩みをもった 方が全国に多くいることを始めて知り、大変勇気づけられたことを今でも覚えています。
その頃からとても充実した内容で、その地道な活動が今日にも引き継がれて「50号」と いう素晴らしい結果に繋がっているのではないでしょうか。
 私は、そのとても勇気づけられる内容から、「あぁるぴぃ」を、「処方箋」と呼ばさせ ていただいています。
 私もこの年になって初めてパソコンという物に触れ、悪戦苦闘しながらもようやく文章 が少し打てるようになったのも、千葉県支部に入会させて頂き、太田支部長をはじめ、  石垣さんや多くの方のご協力によるものです。この場をお借りしてあらためてお礼させて いただきたいです。大変ありがとうございました。そしてこれからもよろしくお願いしま す。


★「愛光秋まつり」に参加して

市原市 石川 隆
 10月6日(土)に「愛光秋まつり」があったので行ってきました。
地元の根郷中学の音楽部の演奏や、佐倉東高校のロックソーランの踊りをはじめ、各施設 利用者による歌と演奏などが催しされていました。会場にはカレー、焼きそば、焼き鳥、 コロッケなどのお店が出ていました。また、ゲームコーナーや陶芸、ギャラリー展などが ありました。千葉盲ろう者友の会もテント半分のスペースを借りてバザーに参加しました。
 お昼はカレーを食べました。テーブルの前に、知人と聴覚障害者の方が座っていました。 聴覚障害者の女性の方とは初対面でした。知人が手話で聴覚障害者の女性に、私が指文字 を習っていることを説明してくれたので、聴覚障害者の女性は指文字でゆっくりと挨拶を してくれました。私は聴覚障害者の女性の指を触りながら、ひとつひとつ確認しながら読 み取っていきました。
「はじめまして、Aと申します。よろしくお願いします。」
指文字サークルの特訓の成果が出たのか、指文字を読み取ることができました。
 私は網膜色素変性症でアッシャー症候群という視覚と聴覚の障害を併発しています。
JRPSに入会して6、7年になりますが、入会した頃に比べ、視力も聴力も悪くなって います。私のコミュニケーション方法は、今は音声だけですが、将来のことを考えて、指 点字、指文字、触手話まで範囲を広げていきたいと思い、指点字サークル、指文字サーク ルに参加しています。
 指点字は、点字タイプライターのキーの代わりに通訳者が盲ろう者の指を直接たたく方 法です。6つの点で構成される点字の組み合わせを、左右の人差し指、中指、薬指で相手 の指を「トントン」と軽くたたいて言葉を伝えます。指点字は最初に五十音を覚えます。 つぎに絵本を使って、2人一組になって、指点字を読む練習と、指点字を打つ練習をしま す。指点字を習い始めて1年になりますが、読むスピードはまだゆっくりですが、だいぶ 読めるようになりました。
 指文字は手話にない言葉、固有名詞、人名などを表現する時に、日本語の五十音を指の 形で表します。指文字も最初に五十音を覚えます。つぎに単語の伝言ゲームやしりとりを しながら、指文字を覚えていきます。指文字は習い始めてまだ半年ですが、先日の伝言ゲ ームで、短い単語の言葉はすぐにわかりましたが、「スノードロップ」といった長い単語 を読み取るのに時間がかかりました。「スノードロップ」の意味がわからなかったので後 で聞いたら、雪のしずくに似た純白の花の名前だそうです。
 「継続は力なり」とよくいいますが、継続して繰り返していくことにより、さらに力が つくのではないでしょうか。どんな小さなことでも、コツコツと地道に努力を重ねていく ことの大切さを実感しました。
 男性の聴覚障害者の方もいたので、指文字で挨拶してくれましたが、指文字が早かった ので読み取ることができませんでした。指文字を普通のスピードで読み取ることが今後の 課題でしょうか。
 お昼はカレーを食べたのですが、カレーだけでは足らず、ボテト、唐揚げを買いに行き ました。ところが唐揚げはすでに売りきれてしまったとのこと。唐揚げはあきらめて、ボ テトとコロッケを買いました。しかし、ボテトとコロッケだけではまだ足らず、焼きそば も買いました。焼きそばがいちばん美味しかったです。


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