あぁるぴぃ広島 56号


■会員の声



●昨年度まで副支部長としてご尽力いただきましたAさん、今年2月より故郷の熊本に帰郷されましたが、本誌のために紙面に花を添えていただきました。
 お礼と近況報告
JRPS広島、会員の皆さまこんにちは。
熊本県北部の山鹿市に帰郷しました、Aです。
現在会員でない私に掲載の機会を頂き有難うございます。
広島在住中はひとかたならぬお世話になりながら、広島を離れる際には身に余る、思い出に残る、壮行送別会を開催頂き有り難う御座いました。
お礼申し上げます。
早いものであれから八ヶ月を迎えました。
帰郷直後に熊本地震でしたが、幸い被災とは言えない、食器棚が倒れた程度でした。その際には皆様からご心配メール頂きながら、返信も出来ずに失礼しました、ご容赦下さいませ。
地震の被害といえば8月末から温泉のお湯に混ぜる地下水が濁りだし、急遽井戸を掘っているところです。
6月には旅館の管理人が病気で退職され、しょうがなく管理人みたいな仕事をしています。
現在は、宿泊が出来る旅館業の再開許可も取り、素泊まりの宿泊受け入れ、かけ流し温泉に水を混ぜての温度調節、電気、水の営繕関係と、当初予想してなった仕事が忙しくて、風呂の掃除と農機具の操作、草刈りは専門の人にお願いしていますが、やりたかったチョウザメ養殖は延期です。
今は、時間が有れば、バナナ・パパイヤハウスの管理、玄関ロビーの観賞植物、すずむし、メダカに、池で飼ってるイズミダイの稚魚を水槽に採って眺めています(笑)。
古い建物ですが、空き部屋を熊本地震被災者救援ボランティアの無料宿泊場所として、社会福祉協議会に提供していますが、阪神、東北地方から、以前支援を受けたお礼に、とか全国各地から来られて、温泉に入って疲れを癒されています。
昨夜は関西、東北組が、駐車場のバーベキュー窯で賑やかに情報交換?していました。
それから、JRPS熊本県協会が無くて、寂しい思いをしていましたが、千葉からUターンして帰省した患者が協会設立に積極的な方で、準備委員会の代表発起人を受けても良いと言われているからと福岡県、大分県の会長からの推薦、支援も頂き、私の居住地が熊本市までのアクセスが非常に悪くて動きが悪いのですが、発起人に名を連ねて、3月26日の設立総会を目標に準備に入りました。
皆さんに教えを乞うことが、多々有るかと思いますが、その際には元広島県会員として教示頂きたく、よろしくお願いします。
長文にて、失礼しました。
皆様のご健康を祈っています。有難うございました。
●オリンピックが終わって  広島市  Mさんからです
  2016年リオオリンピック、パラリンピックが終わりましたね。
団体競技においては、チームワークでメダルをとれたうれしさが伝わってきました。
個人競技は、もちろん、一人でたちむかわなくてはならないので、本当に大変だとおもいました。
パラリンピックにおいては、障がいの種別でたくさんの競技に分かれているそうです。
視覚障がい者では、水泳、マラソン、柔道、ゴールボールなどがありました。 ほかにもあるかもしれませんが…
メダルの色にこだわらず頂点を目指し、頑張ったとおもいました。
本当に勇気と感動をいただき、元気がでてきたようです。
それから、同窓の広瀬じゅん子さんが、柔道57キロ級で、銅メダルをとれた事に おめでとうメールをおくりました。(ニコニコ)
〜深夜までテレビを見ていたせいか、何度か電車を乗り過ごしました〜笑い
いつか、ブラインドテニスも、種目に選ばれたら良いですね。
次回2020年TOKYOに参加されます選手の方々に心より応援したいと思います。

●カープ優勝おめでとう  広島市  Kさんからです
カープ、優勝おめでとう!
ショートゴロ、と聞いたころからジーンとしてきました。
ビール掛や選手へのインタビューを聞きたさに、テレビのリモコンでいつの 間にか眠りについていました。苦笑。
でも朝から、特番やっていたので、またまたリモコン片手です。
ほんとうれしいわ!!
記念グッツやCSチケット欲しさにチャレンジしてみましたが…。 全然つながらないです。涙。
さああと2回、ビールかけしましょう!

●カープ 25年ぶりの優勝   三次市  Hさんからです。
JRPS広島MLのみなさん、 こんにちは。
カープファンのみなさん、セリーグ優勝おめでとうございます。
胴上げからこの一週間はテレビの特別番組もあり、何度も何度も喜びをかみしめることができました。
名場面の一つに、 6月17日 金曜日 オリックス戦 延長12回裏 鈴木せいやの、さよならホー ムランがありましたね。
ヒーローインタビューは、最高です。最高です。最高です。でした。
私、職場の同僚と、三塁側のテレビカメラのすぐそばで最後まで観戦していたの で最高でした。
帰りのバスの中で職場の事務局から、次は東京ドームで9月10日 です。とのアナウンスがあり、33人中3人が手を上げていました。
私は手を上げませんでした。
結局9月10日のドームには職場から30人が行ったのですが、8月中旬でもまだ切符が残っていて、何度か声を掛けられたのですが、結局行きませんでした。
やはり、どうしようかと思ったときは、行動するべきでした。
ガンバレ、カープ! 次はCS、それから日本一。
カーチ、カーチ、カッチ、カチ。
カープファンじゃない人ごめんなさいね。

● JRPS広島(北部地区)のJRで行くローカルな旅(旅行記)
 芸備線の三次駅から木次線を経由し宍道駅、そして山陰本線で江津に向かい三江線で三次へ戻る日帰りぐるっと一回りの旅を企画した。
日時 平成28年5月17日(火) 出発 06:55 三次駅 (芸備線発)
帰着 18:47 三次駅 (三江線着)
参加者は、当事者5名、ボランティア6名で総勢11名。
三次駅の改札口では参加者が各々簡単にあいさつを済ませ芸備線に乗車、学生さんが多いのにびっくり、座っている人よりも立っている人が多く、三次でこの時間帯が乗車率一番の状態だと思われる。
ほとんど乗客のいないローカル列車(一両で列車とは言わないが)を想像していたのでビックリ、その後も学生さんが各駅で乗車し都心の通勤ラッシュ並みの状態「ウソだろ」とつぶやいた。
この状態が備後庄原駅まで続いた。備後庄原駅で半分以上の学生が降りたところでようやく行事参加者が座って話せる状況になった。
西城川に沿って列車は北上し、備後西城駅に着くと、学生さんが全員下車し、私たち11人の貸切になり「この状態が本来予定していたローカル線のイメージ」周りに気兼ねをすることなく自然と大きな声になる、時間はすぐに経ち、備後落合駅に到着した。
三次からここまで1時間22分。
木次線の待ち合わせが1時間ほどあり駅から出てみたが商店も自動販売機も何もない「水分補給もできないではないか」、以前は営業していたであろうタクシー営業所跡や商店跡はある、唯一古民家レトロなタバコ屋があったが営業しているのか定かではない。
ここは、川のせせらぎと、うぐいすのさえずりだけ、大自然そのもの、とても静かで空気が旨い。
その中で参加者全員が集合し輪になり声出し(自己紹介)がはじまった。
当事者やボランティアの方で初参加の方との顔合わせである。
備後落合駅に初めてきたという方が5人、木次線に初めて乗るという方は7人、三江線も8人の方は初めてとのことだった。
また、改札口そばの階段で白杖の使い方講習指導も同時に行った。
 間もなく乗車すべく木次線の列車がホームに入ってきた。勿論一両編成の車両である。
乗車定員は110人と記してある、11人が乗り込み出発。
この車両も貸切である。
二つ目の駅がスキーで有名な三井野原駅、当駅はJR西日本で最も標高が高く727mだ。
スキー場はすぐそこに見えている。
三井野原駅を出て間もなく徐行運転になり、左手に国道314号線の「おろち橋」が見えてきた。
橋脚が朱色で昨日の雨も上がり素晴しい晴天、かがやく緑と抜けるような空、おろち橋の朱色が生えて最高の景色だ。
見える人は写真撮影で大忙し、トンネルに入るまでの数分間だったが、すばらしい景色を見ることができた。
トンネルに入っても徐行運転は続く、何故なら有名な3段式スイッチバックに入る前準備でもあるからだ。
西日本では一番勾配がきついスイッチバックらしい。
三井野原から出雲坂根までは6.4Kmの距離で高低差が161mあり、この車両はここを18分かけて下る。
3段式スイッチバックは日本には3か所しかなく、他は熊本と箱根だそうだ。
まずその一番上の線路を走っているが間もなく行き止まりとなり車両が停車、運転士さんが運転席から出て後ろの運転席に移動した、私たちもゾロゾロ後を追うこれを繰り返す訳だ。
貸切ですから何でもありです。
運転士さんの横に立つと、左上の線路から右下の線路に行くことが良くわかる。
そうこうしているうちに出雲坂根駅に到着、前方に国道314号線が走っており平地まで下りてきたことを実感する。
この坂根の駅は延命水で有名、三次や近隣の県からも水汲みに来る人も多くいらっしゃる。
出雲坂根駅を発車、この10分ほどで列車は、Z(ゼット)の文字のような動きをしたわけである。
次の出雲横田駅では、お年寄りが一人乗車、久しぶりのお客です。
貸切状態だったのは、備後西城 07:56から、出雲横田 10:27 までの7つの区間で、乗車時間は約1時間半であった。
これではひどい赤字区間だろうと心配になる。
車窓は山や谷の景色から、水田や畑・民家に変わっていき車両のスピードもアップ、駅で停車するたびに、お客の乗り降りが次第に増えてきた。
木次駅に 11:25到着。
出発は同じ列車であるが、約1時間の待ち時間がある。
駅前で昼食を買って食べようということになり、改札を出た。
改札を出ると右手に「お食事処」があり、店に入ると定食・どんぶりもの・麺類など何でもある。
やはり出雲そばを食べようということになり、三色そばを注文、おいしかった。
食事をしてから駅前で記念写真をパチリ、丁度良い時間になり乗車、今までとは違い乗客も多い、何とか分かれて座った。
雑談しているうちに30分ほどで宍道駅に到着。
木次線の落合から宍道、全区間に乗った訳だ。
09:22備後落合出発12:50 宍道到着、乗車時間2時間37分 待ち合わせ時間51分駅の数18駅。
距離81.9Km。
山陰本線の宍道駅では52分の待ち合わせ。
駅前に出てぶらぶら、お店は見当たらない。
駅員さんに土産物を売っている店を教えてもらい、徒歩10分くらいのお店に行った、みなさんは乾物をお土産に買っていた。
私とSさんは、ほこりの被ったワンカップと、小鰯の天ぷらを買って駅に戻る。
山陰本線の下りホームで点字ブロックに触れると、内方線点字ブロックだ。
いいね、といいながら点字ブロックに沿って歩くと、肩が柱にぶつかるではないが、字ブロックと柱が近すぎる。
これは問題だよねと話していると列車が入ってきたので寸法は測れなかった、20cmくらいしかないように思えた。
以前、点字ブロックから電柱や縁石などは30cm以上離すようにしていると、広島県北部建設事務所から聞いたが・・・。
JRのルールではどうなんだろう。
山陰本線の列車に乗車した席は空いていた。
4人がけのボックスに一人二人という感じだ。
席を譲ってくださり、11人がほぼまとまって座れた、心遣いに感謝。
そしてワンカップペアはカンパーイとご機嫌。
13:42 宍道発車、15:14 江津到着予定、JR山陰本線快速〔アクアライナー〕は、めちゃめちゃ早く静か。
やはり電車は現代的だ。
しばらくすると右手に日本海が見えてきた。
「おお」、山育ちの人は海を見ると思わず声が出てしまう。
1時間30分はあっという間だった。
江津の乗換時間は3分。
乗換駅の為、陸橋を渡らないとならない、それにビールの追加がほしいので、ボランティアさんに売店に走ってもらうことにした。
列車は江津駅に到着。
乗換はとなりのホームで陸橋を通る必要はなかったが楽しみにしていた売店は無くショックは隠せない。
この車両も一両編成、座席は既に半分くらい埋まっている、適当に分かれて座ると、間もなく列車は発車。
15:17 江津 出発。
18:47 三次到着予定。
3時間30分。
今日最後の路線が一番長い。
駅数は35駅。
距離108Kmである。
三江線は江の川に沿って三次まで行く訳だが、険しい場所もあり何度も土砂崩れで不通になった過去がある。
さらに路線廃止の話が具体化しているようだが・・・今乗らないともう乗れないかも知れない、との焦りから今回の企画となった。
江津を出発してしばらくは江の川が左手にあり、ゆっくりと流れる大きな川。
そういえば我々午前9時ころは備後落合駅にいた、脇を流れていたのは西城川だった。
その川の流れが、三次で合流してここへ流れてきていると思うとちょっと不思議な感じがする。
三江線の駅には駅名とは別の名前が付いているらしい。
大蛇とか恵比須とか。
神楽にちなんだ名前がそれぞれの駅に付けてあるそうだ。
江津を出発してから1時間くらいで、かなりのお客さんが下車、いつの間にか江の川が右手になっている。
三江線は昭和50年ころまで、三江北線と三江南線と呼んでいたらしい。
このあたりの線路がやけに現代的なので、もしかしてこのあたりが最後にできた区間なのかも知れない。
ほとんどの路線では石の上に木の枕木なのに対し、コンクリートの路線ではコンクリートの枕木のようだ。
振動も少なく、スピードも上がっているこの区間、最後に工事をした区間だと推測するが災害で補修した区間かもしれない、との声もあり、結局どちら分からない。
三江線らしい振動とレール音の大きい区間に戻ると、大きな声をださないと会話はできない、車両の音と大きな声をBGMにしてちょっと一眠り。
女性は元気です、ずっとしゃべってらっしゃる。
宇都井駅に到着。
この駅はホームまで地上から30mの高さにあり、「日本一高い 天空の駅」と呼ばれているとか。
ちなみに階段は116段で、もちろんエレベータはない。
宇都井駅を出て時間を尋ねると、17時40分三次まであと1時間ほど。
私の知っている駅名がなかなかアナウンスされない。
いくつかの駅をすぎ「作木口」と聞いて「ほっ」、でもこの作木口駅はまだ島根県だ。
川の向こうに見えている作木の中心地は広島県ですから、県境は江の川の中らしい。
駅から作木の中心部を抜けて30分ほど歩けば、常清滝(じょうせいだき)に行ける。
落差126mもあり、広島県で唯一日本の滝百選に選ばれている、昔は冬季に完全凍結していたが近年は完全凍結はしないそうだ。
このあたりは滝の高さが物語っているようにかなり険しいところで、「V字谷」という言葉がぴったりのところ、そんなV字谷の川向こうに、江の川カヌー公園さくぎが見えてきた。
子どもたちに人気の水すべり台もあり、コテージも見えてきた。
夏は人気の場所だが今は誰もいない。
列車はゆっくりと最終地点へと進んで行く。
このJRの旅も、残すところ30分ほど。
参加のみなさんに一言ずつ感想をもらうことにした。
待ち時間も楽しかった。
三次から三次へ行ったというのがすごい。
あまり電車にのらないので楽しかった。
スイッチバックがわくわくした。
ループ橋の朱色が新緑の緑に映えてとてもきれいだった。
広島への往復しか乗ったことがなかったので、三次から反対方面に行ったり、三江線に載れて面白かった。
見どころはスイッチバックでした。
写真がうまく撮れなかったのが残念。
ぜひ、秋にまた計画してほしい。
芸備線から始まって、乗ったことのない路線だったので、とても新鮮な感じがしました。
久しぶりに列車に乗りました。
また企画されれば乗りたいので誘ってください。
ありがとうございました。
朝、学生さんのマナーが良くて、うれしくなりました。
芸備線以外は乗ったことがなかったので、ぐるっとひとまわりは面白かった スイッチバックで線路の先が行き止まりになっているのが感動でした。
三江線が廃止になるまでには乗りたいと思っていたので、今日こうやって乗れてよかった。
今日は朝から一日中宴会をするのかと思っていたのに、宴会がなかったことだけが残念だった。
他はすべてOK、楽しかった。
また次も参加するよ。
天気も良かったし、ずっとおしゃべりをしていた。
ずっとしゃべり通し。
居眠りもしていない。
長旅でも疲れなかった。
楽しいことのほうが大きかったのだと思う。
乗換の1時間待ちが3回もあったが気にならなかった。
ちょうど良い待ち時間だった。
木次の駅前が食事処やスーパーがあってよかった。
列車は、三次駅に到着。
改札で駅員さんに、一回りしてきたことを話すと、「切符を記念に持って帰ることができますよ」とのこと。
無効のスタンプを押印してもらい参加者の皆さんは思い出として持ち帰った。
改札口を出ると、自然に小さな輪ができました。
口々にお疲れ様でした。
楽しかったね、と挨拶、今回12時間の旅は無事終わった。
乗車距離319Km、乗車時間9時間1分、待ち合わせ時間2時間50分 お疲れ様でした。

● 今回は2001年5月から発行された会報誌「あぁるぴい広島」の中から、いくつかを抜粋してお届けします。
なお、当時の紙面をそのまま掲載していますので、現況とは異なる箇所も多数ありますことをあらかじめご了承願います。
「あぁるぴぃ広島 3号」(2002年2月発行)より 私の2002年は…。
(呉市 Yさん)
 窓から顔を出して感じる風の冷たさに、−年の終わりを感じる。今年もよく頑張った。
ニュースでは「しし座流星群」のことを言っていたので、夜空を見上げてみたのだけど、見えるはずは無いよな〜。星を見なくなってどれくらいになるだろう。子どもの時はまだ見えていたのだけれど。
 色変と付き合って37年が過ぎ去った。晴眼者の中で隠して生きた訳ではないけれど、理解されないので黙って人の何倍も努力してきた。
それはそれで良いことであったに違いない。しかし親の無知故に盲学校の存在すらしらなかった。40歳過ぎての自立の為の学問は厳しかった。
幼児から学齢期の色変の子ども達を見て、もっと早くに来たかったと思った。つくづく教育の大切さを知った。
 私は子どもの時、進学や就職、結婚と苦しんだにもかかわらず、親とは病気のことについては、話し合わなかった。
自分で医学書を調べ、病院を何軒も回ったが、答えはいつも決まって、「治療法がありません。いずれは失明します。」だった。
それ以来、今に至るまで何もしていない。その事については後悔していないが、後年になって身内に色変がいるのにもかかわらず、血族結婚した親をせめた。
昔は医学の知識が乏しいとはいえ、親が子どもの行く末を考慮しなかった責任は大きいと考えるのは、私だけであろうか。
 子どもには今のところ、色変の遺伝は出ていない。しかし、難しい病気をかかえている、障害を持つ親からは、障害の子が生まれるのかと悔やんだこともあったけれど、資格を取って自立の道を選んでくれたので、今のところは安心している。
とは言え、これから様々な問題をかかえるのだろう。少しでも助けになってやりたいものだと思う。どんな立場であれ、親子が行くべき道を話し合うことは大切であろう。
 いままで、気を張り詰めて(?)生きてきたので、来年は楽しいことをしようと思っている。
とりあえず、歩行訓練を受けて、一人でお気に入りの喫茶店にいきたいなあ〜。

★「あぁるぴぃ広島 4号」(2002年4月発行)より
 盲導犬ウエンズデーとの出会い(福山市 Kさん)
1 網膜色素変性症で見えなくなるまで
 私は1944年生まれの男性です。山間の農村に7人兄弟の末っ子として生まれてそこで育ちました。
若い頃は(50歳くらいまでは)通常に見えていましたが、それを過ぎる頃からだんだんと視力が落ちて自転車で川に落ちたり、歩いていても何回も川や溝に落ちるようになりました。
その時にけがをして、顔を何回も外科医で縫ってもらいました。多い時は12針も縫いました。
これではいけないと思い、白杖を我流で使うようになり、その間もだんだんと視力が下がって、2000年4月から9月の末まで、大阪市にある日本ライトハウスの第3生活訓練部に入所しました。
入所の時はパソコンの画面は、わずかですが見えていましたが、終了の時は画面は見えなくなっていました。
2 ウエンズデーとの出会い
 盲導犬の申請は確か1998年から、したと想います。
2001年の9月頃に日本ライトハウスの行動訓練所(盲導犬訓練所)の所長さんが、我が家を盲導犬(イングリット)と共に調査にこられました。
その後、「訓練が決まったので、11月26日から訓練を受けるように。」と通知がありました。
 11月26日に妻と訓練所に行きました。大阪府の富田林の近鉄電車からバスに乗り換えて、山道を登って行きました。
バスを降りて急な昇り坂を息を弾ませながら30分ぐらい登った静かな所に訓練所は在りました。
車で10分も行くと、もうそこは奈良県だそうです。
26日は顔見せで私たちは長野県と大阪府豊中市の人と3人で一緒に訓練を受けることになり、指導員のT先生の紹介がありました。
 27日の夕方には盲導犬との引き合わせが有りました。
各自の盲導犬の両親、生まれた所など、ウエンズデーは訓練所の生まれです。
一緒に訓練を受けた、以前我が家に来たことのあるイングリットという盲導犬はオーストラリアの生まれです。
生年月日、パピーウオカーさんの住所、氏名、姿等、先生が、性格や毛の色など詳しく教えてくれました。
 そこからは、盲導犬の世話は各自が自分の部屋(個室)で寝起きを共にして、すべてすることになります。
午後7時ぐらいの盲導犬の食事が最初の仕事です。
これは器にドックフードを決められた量を入れてやると、アッという間に食べます。
午後9時過ぎにトイレに行きます。最初は引き綱を引いて決められた場所まで手探りで行って「クイック。クイック。」と言えば、排便をします。
そのまま部屋に帰って、後は自由です。
その時は盲導犬がしたシッコやウンチの後片付けのことは考えていませんでした。
先生が後片付けをしてくれていました。
 それから3日ほどして、排便の時は尻尾のところにビニールの袋をつけて、シッコやウンチをさせますが、なかなか思うようには袋に入らず、袋に入っても、それを外してからの後片付けが大変です。
慣れるまでは、ウンチやシッコが手や服について、匂いで気分が悪くなり、その頃は訓練にこなければよかったと思うことも度々、ありました。
それも、1週間もすると段々と慣れてきます。
ペットを飼ったことのない私には本当に大変でした。
訓練は午前中と午後3時間ぐらい実際に道路や駅、スーパーなどに行って、先生がついて訓練をします。
道路では最初の時は、あまり障害物のない所を歩きますが、段々と障害物の沢山ある所に行きます。
車が停めてあったり、頭のあたりに障害物があったりで、なぜ、この盲導犬は、素直にまっすぐに歩かないのかと、けっ飛ばしたくなることがあります。
スーパーはよく知っていて、エレベーターやエスカレーターには、すぐに行きます。
駅ではキップの自動販売機や改札、ホームには、命令するとすぐに連れて行ってくれますが、ホームは私が怖がりますので、ハーネスを引張りすぎて大変でした。
訓練から帰る時の車の中では、足元に寝さしておるのですが、無理な体勢からでも顎を足の上に乗せてくると、だんだんに可愛さが増してきます。
 盲導犬は普段はおとなしくて、命令をよく聞いて立派だと思われますが、運動場に行ってハーネスも首輪も外してやると、全く違う犬かと思うほど犬の本能を丸出しで力一杯走り出します。
こうなっては、もう命令もなかなか聞かなくなります。中にはカーブを曲りきれずに転げているのもおります。
この時のスピードは時速40kmぐらいで走っているそうです。
10分ぐらい走らせますと、ストレスも解消するのか、後は落ち着いてよく命令も聞いてくれます。
 行動訓練所(盲導犬訓練所)での訓練は12月15日までの3週間で終わり、先生がそれぞれの家まで車で盲導犬と共に送ってくれて、今度は自分の希望する、家の近くを1週間訓練をしてくれます。
 私はお願いしてウエンズデーと電車を何回も乗り換えて帰ってきました。
12月15日は小雪のちらつく寒い朝でした。 朝6時前に長野県に帰る訓練生を乗せたマイクロバスに富田林の近鉄駅まで同乗させてもらい、ここからは初めてのウエンズデーとの旅です。
 ノートパソコンを背負って左手にハーネスを持ち、切符を買って改札もうまく通り抜けて電車に乗り、近鉄の天王寺駅で電車を降りて少し歩いた所で、ウエンズデーの生理現象が始まりました。
ウンチをホームにしたのです。
ポケットからビニールの袋を取り出して、手探りでウンチを拾っていたら、若い駅員さんが来て「お客さん、そのまま行ってください。私が後片付けをしますので。」と言ってくれました。
最後まで拾って、ウンチの入った袋をポケットに入れようとしたら、その袋を取って、何処かへ片付けてくれました。
それから「何処まで行かれるのか。」と尋ねて、JRの天王寺駅まで送ってくれました。ありがとう。
 しばらくした時に、またウンチをしてしまいました。同じように拾っているとJRの駅員が来て犬も私もぼろかすに言われました。
片付けた後に、切符を買おうと緑の窓口を尋ねていたら、駅員が3人来て「貴方はどうして切符を持っていないのか。」としつこく聞いてきました。
まだ、改札口を入っていないので「これから切符を買うところです。」と言っても、なかなか判ってくれません。
まるで犯罪人扱いをされました。
20分ぐらい引き止められて、私もたまりかね「なぜ貴方達はそうして私をここに引き止めるのか、その理由とお名前を聞かせてください。」と言ったら急に態度が変わりました。
 緑の窓口で備後赤坂駅までの切符と新幹線の特急券を買ってホームをウロウロしていたら、親切な女の人が来て「何処まで行かれるのか。」と尋ねてくれました。 新大阪駅改札口で別れてウエンズデーに連れられて新幹線に乗りました。
 新幹線に乗ると緊張がいっきに解けて長野県の友達が別れ際にくれた缶コーヒーを飲んで、それから車内販売でビールを買って飲んでいましたが、その間もウエンズデーは足元でじっとしていました。
時々私の脛のあたりに無理やりに顎を乗せてくるのはとても可愛くて、これからは一緒に暮らすのだなーと実感が湧いてきました。
 福山駅のホームを歩いている時に、ふと、年末ジャンボを思い出したので、福山駅で途中下車をして、NHK福山放送局の横の販売所で買いました。
駅前のバスセンターまで行って、尋ねるとすぐにバスがあると言ったので、バスの乗り場に行くと小学校の同級生が乗っていて「K、元気か。」とすぐ隣で声がします。
私が「どちらさんですか。」と言うと「Hよ、Hよ。」と言ったのですぐに判りました。
よもやま話をしていると停留所に着きバスの運転手が道路まで降ろしてくれました。
 久しぶりの故郷の道。ウエンズデーにとっては初めての道。どんな気持ちでバスを降りたのだろうか。
そこから2キロほどの道のりをウエンズデーに、ここは何処と説明しながら帰ってきました。判るはずもないのにと思いながらも・・・。
今までは独り言でしかなかったのに、これからはウエンズデーが聞いてくれると思えば、心も温かくなってきます。
急な坂道を登ると、入り口に柿の木の大きなのがあります。
「ウエンズデー、ここが新しい家だよ。
」階段を2段上ってドアを開けて玄関に入ると家内と10月の末に嫁いだ娘が迎えてくれました。
いきなりウエンズデーが飛びついたので、2人ともビックリした様子です。
部屋に入って、クンクンと匂いをかいで回るので、それぞれがイメージしていたのとは全然違っていたようです。
3人とウエンズデーとで、お茶を飲みながら「何時迎えにこいと電話がかかるか2人で待っていた。
」と話していました。
3 ウエンズデーと共に歩く
 盲導犬と上手に歩くには、ユーザーがいかにその盲導犬を信頼できるかにかかっていると私は思います。
崖や階段の近くに行くと今までのように白杖で確認をしないので、ただただ、盲導犬を信頼するだけです。
かあちゃんもね。いずれにしても、人間に感情があるように盲導犬にも感情があります。
仲良く末永くウエンズデーよろしくお願いします。

★「あぁるぴぃ広島 7号」(2003年1月発行)より
 巻頭言(三次市 Hさん)  平成12年に医者の告知を受け、始めて聞く病名に戸惑いました。
身近に網膜色素変性症の方はいませんでしたので情報がなく不安はつのるばかりで仕事にも力が入らなくなる時期を過ごしていましたが、半年ほどしてJRPS広島の存在をテレビで知り活動に参加しています。
 昨年は感謝、感謝の年でした。
一つ目の感謝は情報で、今ほしい情報と将来必要となるであろう情報をもらった事。
パソコンの音声読み上げソフト、タクシー助成、遮光めがねのことなどは私にとって即役にたつ情報でした。
特に、パソコンの話しですがスキャナで本を読ませて文字変換をし音声読み上げをすることは現在の仕事をするためにも、何がしかの墨字を読むためにも読む気がうせている時期にありがたい情報でした。
視野3度の私はマウスポインタを見失うのですがメニューを読んでくれるのが助かります。
将来の情報は白杖のこと生活訓練のことなどで、まだなんとかなっているが夜と白銀の世界は苦手になっていますからいずれ必要となるでしょう。
 もう一つの感謝は悩みを共有できる方々と知り合えたことです。
広島を中心として関東の方、関西の方また地元みよしでもたくさんの方と知り会い元気を頂いています。
年配の方に今度はいつ皆さんと会えますかと問われるのが一番元気になります。

★「あぁるぴぃ広島 9号」(2003年6月発行)より
 JRPS(網膜色素変性症協会)との出会い(尾道市 Oさん)
 1999年5月に京都大学眼科にて診断書「網膜色素変性症によりバイク・車の運転をしてはいけません。」とJRPSの冊子を貰い、かなり落ち込んで帰宅しました。
この診断書の内容では「期間が記入してない。治癒見込みの記入がない。」「病気休暇で休めない。明日から仕事を継続できない。」年休を取りながらいろいろな人・団体に電話相談しました。
そんな時、「タートルの会(視覚障害者の復職を考える会)」から連絡が入り、「特定疾患に認定されているから大丈夫です。診断書をすぐに出しなさい。」いろいろないきさつがありますが、6月の中旬に診断書が受理されたと思います。
法律事務所、組合、地元議員などいろんな所に相談に行きました。
 Sさんとお会いしたのが西条で行われた全視協大会だったと記憶しています。
その時いろんな人と話している内に車・バイクの運転が出来なくても継続雇用が可能では、ないかと考えるようになり、その考えを労働組合に申し入れしました。
組合として全国で約350人位の職員が病気怪我が原因で車・バイクに乗れない事を理由に休職後、退職に追い込まれている事を重視し組合運動として取り組みました。
 参議院情報通信委員会において当時の八代郵政大臣が「その人が障害を持ちつつも、私はこういう事をやりたいということを積極的に申し入れていただいて、それにまた道をつけてあげるのも上司の役目だというふうに思っております。」と答弁されました。
 2000年4月の後半だったと思います。
組合・タートルの会指導のもとにバイク・車に乗らない仕事で職場復帰出来る事を当局と交渉。
数日後、「バイク車に乗らなくていいですから・・・。」と職場復帰。
 今振り返ってみると、JRPSの冊子のおかげでたくさんのすばらしい友人に出会え継続雇用もかない、障害を自分なりに受け入れて一歩外に向けて出る大切さを痛感しています。
 今後とも視覚障害者職域拡大のため頑張っていきたいと思います。皆さん、ともに頑張りましょう。

★「あぁるぴぃ広島 12号」(2004年1月発行)より
 広島市井口のMです。
55歳、妻51歳、長女27歳、次女25歳、長男23歳の、5人家族です。
昨年11月総合病院でRPですと言われましたが、もう1軒総合病院に行きましたが、同じ結果でした。
この目がいつまで光を感じてくれるのかなど様々な事が頭の中をぐるぐる回って、これから何が出来るか何をしたらいいのか、気ばかりあせっていました。
姉の一言で気持ちは変わりました。
「兄弟、子供でなくてよかった」「自分だからよかったという気持ちになったら、楽だよ」この病気を受け入れて、進行を遅くらせる努力をして、この病気とうまく付き合って行くことにしました。
(私の自慢:これをきっかけにタバコをやめました。やめたい方アドバイスします。
) どちらかと言えば、右目のほうが見えにくいので人とすれ違う時肩が当たったり、向うから、二人が歩いて来ると思っていたら、三人だったりして、はっとする事や、あら?と思う事など変化のある毎日を過ごしております。
本会に、入会して本当によかったと思っています。暖かく迎えていただき、気軽に声をかけて頂き色々な事を教えていただいた事で、くよくよせずに前向きに生きて行こうと勇気をもらいました。
今後ともご指導の程、よろしくお願いします。

★「あぁるぴぃ広島 15号」(2004年11月発行)より
 JRPSとの出会い(広島市 Sさん)
 1988年39歳の時、母も目が悪く、私も目の病気があるのではと、思い診察してもらった所「網膜色素変性症です」と言われました。
 当時は病気に対して深く考えていなかったのですが、症状が進むに連れ不安が大きくなり、どうすればよいのか困っている時、Sさんを紹介して頂き、福山に出向きました。
県外からも沢山の人が来られていました。皆さん明るい、これが最初の印象です。この時がJRPSとの出会いでした。
始めての講演、交流会、始めての同じ病気を持っている人達とのふれあい。
行くことにちゅうちょしていたのですが、この機会をのがさず、参加して、本当に良かったと思っています。
 JRPSで、障害年金、等級、病気の症状、生活用具,点字、白杖の使い方等、色々 教えて頂き、そして多くの仲間を知る事が出来ました。
一人じゃない。どんな事でも話あえる仲間がいる。心強い。
 また、友人、仲間にパソコンを習う事を勧められました。機器が苦手な私にも出きるかなと、心配しましたが、分かりやすく教えて頂き、その上子どもが使っていたパソコンを、視覚障害者用に設定してもらったりして面倒を見ていただきました。
出会いのお陰だと思っています。パソコン習って良かった。皆さんが身近に感じます。
 MLに参加させて頂き、多くの新しい情報、そして大きな感動を貰っています。これは、私自身の励みにもなっております。
 JRPS,弱問研に出会い本当に良かったです。感謝しております。これから参加される方も「よき 出会い」をされるよう、願っています。
これからも,出会いを大切にし,多くの仲間と交流していきたいと思っています。皆様、宜しく 御願いします。

★あぁるぴぃ広島 19号(2006年1月発行)より
 「JRPSとの出会い。
そして・・・」(広島市 Mさん)
 私は、小さい時から夜盲症があり、眼科通院してましたが、「普通の人よりちょっと目が悪いだけ。」と、本人は、いたってのん気に考えていたので、本当の病名を知りませんでした。
そんなある日・・・保健所から(平成11年2月の)、「一日医療相談会」の案内が届きました。
「網膜色素変性症」 という自分の病名を初めて知りましたが、その頃の私は、視力も矯正で、0,7近くありましたし、視野も自覚するほどの欠損はありませんでしたので、どんな病気なのかわからず、症状、治療法は?その疑問が少しでも解決できればと「一日医療相談会」に参加しました。
進行性で、視野、視力の低下・・・最悪失明の可能性もある。治療法が今のとこない。ショックでした。
見えなくなる=何もできなくなる。頭の中で方式が出来てしまいました。
仕事も出来なくなる、結婚もできないのでは・・・将来を考えると不安でいっぱいでした。
しかし、講演会等に参加し、同じ病気の方々と交流する中で、「見えなくなっても、それなりにできることはある。
それに、こんなに元気で明るく頼れる仲間、先輩がいる。」と思えるようになりました。
そして昨年・・・メールから始まった交際が進み、お付き合いするようになり、プロポーズされました。
凄く嬉しかったです。でも RPのことは、詳しく話してなかったので、今はまだ視力・視野共にあるけど、将来見えなくなった時に「こんなはずじゃなかった・・・」と言われるんじゃないだろうか?と不安でした。
でも、ちゃんとRPのことを理解してほしい。それで断わられるのなら仕方ないかな。と思い、彼にRPであることを話しました。
彼は、初めて聞く「網膜色素変性症」に戸惑ってましたが、詳しく知りたい。と、JRPS広島主催の医療講演会 「網膜色素変性症とうまく付き合う方法」(昨年5月)にも参加して、眼科の定期受診の時にも同行して担当医から説明を聞いてくれました。
彼が私のRPを知って、それでも「一緒になりたい。
」と言ってくれた時には、涙が止まりませんでした。
正直、将来見えなくなるのが判ってて苦労するのに結婚したい。って言ってくれる人なんていないよな。と思ってましたから。
そして、昨年8月に結婚し、現在、東広島市西条町で、主婦業と仕事を両立させるべく頑張ってます。
結婚が決まって支部会員の皆さんに報告した時、自分のことのように涙を流して、喜んでくださり、本当に嬉しかったです。
悩み、辛さ、楽しみを共有でき、自分が、自然体でいられる場所、会があることに感謝してます。
これからも会のために、できることをお手伝いしていきたいと思っています。宜しくお願いします。

★「あぁるぴぃ広島 28号」(2008年5月発行)より
 この7年を振り返って 〜やはり仲間づくり〜(福山市 Sさん)
 2001年(平成13年)2月に15番目となる支部創設以来、7年が経過しました。
 今まで、本会の目的のひとつであるQOL(人生の質)の向上を柱に情報の共有に努めながら、活動してきました。
医療講演会をはじめ、点字、白杖歩行、年金ほかの福祉制度の講演会。三次市での鵜飼見学やヤマメ釣り、福山市での漕艇(ボート)体験会、呉市での自衛艦・三宅酒造見学ほかレクレーションも行ってきました。
 2004年(平成16年)には広島県(福山市)で、本部の第1回の代議員会・全国大会を開催しました。
 支部行事での交流を通じ、「ノンバーズ音楽隊」「あらもり祭(さい)」の音楽グループが誕生しました。
「視覚障害者の音楽発表会」も今回で第4回を迎えます。
スポーツでは「視覚ハンディキャップテニス」のグループも産声をあげそうです。
 身近にある他の視覚障害者団体との交流も生まれています。
広島市には視覚障害者協会、広島弱視問題研究会、カナリア会、視覚障害者の自立をすすめる会ほかの団体があります。
福山市にも視覚障害者協会があります。
このような身近な視覚障害者団体に入会し、そちらでも活動の中心を担い、交流を深めている会員もいます。
 また、聞くところによると広島市には4月に広島市総合リハビリテーションセンターが開設されたとのことです。
ぜひとも、見学の機会を持ちたいと思います。
福山市では福山市視覚障害者地域活動支援センターが始動しました。
点字、白杖歩行、音声パソコン、料理ほかの日常生活訓練など、神戸・大阪・京都など遠方で宿泊・入寮をしなければ受けることができなかった視覚障害リハビリテーションが身近で容易なものになりました。
 支援者についていえば、ライオンズクラブとの連携は皆無ですが、ボランティアグループとの連携が図られ、誘導・支部会報の音訳・料理指導ほか、様々な形で、ご支援をいただいています。
ボランティアさんの声は2006年度に発行した支部会報に「ボランティア通信」として掲載しました。
 (中略)  私は今から10年くらい前、PTA新聞の担当をしていました。
年度末の広報に掲載した卒業する子どもたちの自画像の似顔絵紙面に「仲間とともに」というキャッチフレーズをつけたのを改めて思い出しました。
 総会に多くの会員の皆さんのご出席をいただき、お知恵をいただくなかで、更なる支部の発展を切望しています。



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