巻頭言


   「自立に向けて」

       三次市 Dさん

私は小さい頃から目が悪く、「近視」と診断されて、いつも学校では前の席でした。
学生時代は、クラブ活動へも積極的に参加していました。
階段の下りは、少し苦手でした。
太陽が眩しかったりもしました。
福祉施設に就職し、しばらくは同僚と同じように仕事をこなしていましたが、30代後半から夜盲や視野狭窄で段差に躓くようになり、仕事に不自由さが出て来ました。
45歳で「網膜色素変性症」と診断されました。
仕事でも職種変更が有り、直接介護から外れる事になりました。
59歳で仕事を辞めました。
その後しばらくは、家で過ごす事になりました。
人に会うのも嫌で、部屋から出るのも嫌でした。
家族関係も不安定になり、喧嘩が絶えなくなりました。
家族と、何か出来る事が無いかを話し合いました。
第一歩として、外に出る事から始めました。
ヘルパーさんをお願いし、散歩から始めました。
その後、散歩もかなり出来るようになり、買い物にも行かれるようになりました。
ヘルパーさんと、歩く時の会話も出来るようになり、心も安定するようになりました。
当事者の団体が有ると聞き、行事に参加しました。
皆さん明るく活発で元気でした。
何回か参加させて頂き、私も少しは積極的になれたような気がしました。
自分でも何か出来ないかと思い、1人で出来る事を増やしたくなり、広島市総合リハビリテーションセンターに通所する事にしました。
ここでは、音声パソコンやスマートホンの使い方や、歩行訓練などをする事にしました。
この頃はもう、光の明るさもほとんど分からなくなっていました。
まずは、三次から広島市総合リハビリテーションセンターまで、バスで通所します。
2時間かけて行きます。
最初は、訓練士さんが付き添ってくださり、広島バスセンターからリハビリテーションセンターまでの行き方の訓練を重ねました。
とても不安でした。
しばらくすると、一人でバスで通う事になりました。
自分の頭の中に、地図を描き通いました。
リハビリテーションセンターでは、音声パソコンの訓練も難しく、今でも大変な事があります。
アイホンも少しずつ出来るようになって来たと思います。
職員さんに、日頃困っている事などの相談にも乗ってもらう事もあります。
もう少しで訓練も終わりとなります。
今一番感じている事は、自分にこのような機会を与えて頂いた事や、色々な場面で支えてくださった人達や、迷った時に声掛けをしてくださった人達や、悩みを聞いてくださった人達に感謝をしている事です。
私は今が、「第2の青春」だと思っています。
これからも、声掛けやアドバイスをよろしくお願いします。

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