「この病気とつき合って その1」

T・M(男性 福岡市中央区)


 私とこの病気との出会いは働き盛りの40歳の頃のことでした。
 ちょうど年号が昭和から平成へと変わる頃のことです。
 残業続きの中で、日常生活で目の見え方に気掛かりなことがいくつかありました。
 でも、小さな頃から強度近視に乱視、色弱に夜盲と目は自分の体のウィークポイントで、目に少々異常があっても仕方ないんだと半ば諦めの気持ちでやり過ごしていました。
 どうせ疲れ目から来た症状だろうとほったらかしにしていたのです。

 大きな事業を仕上げ、精神的・時間的に一段落した42歳の夏、思い切って職場近くの眼科へ受診してみました。
 検査と問診を経て、数日後結果確認のために再びそのクリニックを訪ねました。

「余り深刻に受け止めないでください」と前置きして先生は次のように仰いました。
「あなたの病気は網膜の細胞が徐々に破壊されていき、視覚障害が進行する網膜色素変性症という病気です。
 最悪のケースでは失明することもあります。
 残念ながら現在のところ進行を食い止めたり、治療する方法はありません。」
とのことでした。

 太陽のまぶしい光が降り注ぐ青空の下に出た時、その明るさとは裏腹に私の心は真っ暗になっていました。

 診断直後の患者のほとんどがするように、私も誤診を願って、セカンドオピニオンを求めようとしました。
 そうした願いも空しく、知人のドクターから「この病気の症状ははっきりしており、残念ながら誤診の可能性はまずないようです」と告げられ、この診断を現実のものとして受け入れざるを得なくなりました。

 幼少の頃からの経験で通常の人よりも視覚が劣っているということは受け止めていたつもりです。
 でも、亡くなるまで、コンタクトで矯正すればさほど生活には不自由を感じることはないだろうと漠然と思っていました。
 ですが、「障害が進行し、下手をすると失明してしまう」というような現実はとてもすぐには受け入れがたいことでした。
 次には、心の整理ができないまま誰を恨むこともできず、「なぜ自分だけがそんな目に会わなければならないのか。この苦しみは自分にしか分からない。」と悲嘆にくれ、一人涙し、「自殺」という2文字が頭をよぎることもありました。【見えているうちに】

 しかしながら、3人の育ち盛りの小中高生の子どもを抱え、いつまでも悲嘆にくれているわけにはいきません。
 また、
「将来のことを心配し、いくら嘆いたところで何の解決にもならないじゃないか。
 少しずつ状態が悪くなっていることは感じるものの、今のところ現実に生活上大きな不便を感じているわけじゃないし、視覚が少しでもいい状態にある間、長年できなかった夢を叶えようじゃないか」
と少しずつ前向きに考えることができるようになってきました。

 子どもと富士山に登りました。
 パスポートを取り、初めて海外旅行に出かけました。
 経験したことのなかったフルマラソンに挑戦し4時間ちょうどで完走しました。
 その当時配属されていた職場の仕事が私にぴったし合っていたのでしょう。水を得た魚のように楽しく充実した3年間の仕事が不安を追い払ってくれていたのかもしれません。

 でも、いいことばかりではありません。確実に病魔は忍び寄ってきます。
 夜盲が進行し、帰宅時の通勤に不安が出てきました。
 眼球の中心の濁りがひどくなり、書類の文字が次第に見づらくなってきました。
 球を追うことが難しくなってきて、休日の最大の楽しみにしていた草野球も段々と続けることが危うくなってきました。
 車の運転もその時起こしたちょっとした接触事故を機に止めました。

 次第に文字が読みづらくなり、ルーペを使って必死に読もうとしてみましたが、それもいよいよ難しくなってきました。
 当時は拡大読書機などの便利な機器類に関する情報もまったく持ち合わせていませんでした。

 当時通っていた病院の先生のお話では、
「網膜色素変性症の患者には比較的若くして出る白内障があなたにも出ています。
 見えづらくなっている原因が白内障による濁りによるものが大きいのか網膜色素変性症の進行による要素が大きいのか何とも言えません。
 確実に言えることは、白内障の手術で濁りを取れば、取れた分だけは見やすくなるということです。
 手術のリスクもありますし、期待されたほどの効果が得られるかは保障できませんがどうしましょうか」
というものでした。
 書類の文字が読めなくなるということは事務職にとっては致命的なことです。
 機器類を利用して不便さを解消するという道を知らない者にとっては、手術という選択しかありません。
 眼球にメスが入る恐怖を覚えながらも、一時でも長く文字が読める視力が維持できますようにとの思いで手術を決心しました。

 術後しばらくは順調でしたが、数ヶ月経った頃再び中心部の濁りがとてもひどくなりました。
 その時は「これで万事休したか」と思い込み、一時ひどく落ち込んだ記憶があります。
 ですが、これはレーザー治療により克服することができ、しばらく小康状態が続きました。

 (つづく)


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