「人生、修行の旅」

S・S(男性 直方市)


 私は、5年程前に、ほとんど視力を失った55歳になる、おじさんです。
 40歳前後の頃だったでしょうか。
 夜は見えにくく、昼間も視力が低下したなあと感じるようになって来た時、何回か車で事故を起こしてしまいました。
 初回の時こそ家内は「厄逃れが出来たと想えばいいのよ」と慰めてくれましたが、2回、3回と続くと、さすがに心配して「病院へ行ったら」と言うようになったので、病院(眼科)へ行くことにしました。

 眼科でいろいろな検査や診察の後、先生から「網膜色素変性症です。」と言われました。
 私は初めて聞く病名だし、どんな病気なのか分らず、キョトンとしていると「個人差はあるけれど、ゆっくり進行し、現在、治療法がないので失明する可能性もあります。」
と先生に告げられました。
 失明という言葉は晴天の霹靂で私は愕然とし、自宅へ帰る間、頭の中は、失明、退職、貧困、家庭崩壊などの言葉がグルグル回って混乱していました。

 眼病のことは気にしながらも、出来るだけ平静を装いながら、普段と同じように生活していましたが、先生の言われたように、数ヶ月経っても、あまり進行していないようだったので、精神的にも落ち着いてきました。
 そんな時、30代で病気した時、お世話になった、土佐清水市のN先生を思い出し相談することにしました。
 N先生は「この病気は失明する可能性が高いから、遠いけれど、騙されたと思って行ってみなさい。」
と言って、千葉市のF眼科を紹介して頂きました。
 早速、予約して行ってみると、F先生は高齢だったけれど漢方医学では有名だそうで、
 「遠い所、よく来たね。もう大丈夫だから。少なくとも進行は止められるから。」
という言葉を頂き、天にも昇る気持ちでした。
 帰りの新幹線はウキウキした気分であっという間に感じました。
 しかし、F先生は2年足らずで他界され、ガッカリしていると、F先生の弟子(共同研究者)であるY先生が和歌山におられるということを聞き、今回も早速予約をとり和歌山市のY眼科へ行きました。
 Y先生は、
 「この病気の進行を止められるとF先生は言われたと思いますが、私は進行をゆるやかには出来るが止めるのは無理だとおもいます。」
と言われたので、落胆はしましたが、他に頼る所も無く、通院を続けていましたが、病気も進行し、1人で和歌山まで行くのが怖くなり、2年足らずで通院を断念しました。

 そんな時、日本で鍼灸の勉強し、その後、中国は北京で3年間程、鍼の修行をされた先生の情報があり、家内と2人で話を聞きに行きました。
 先生は、
 「中国の病院でも網膜色素変性症の患者さんも治療されていましたが、難しい病気なので、治るとか、進行を止めるとかの保障は出来ないし、治療は、1クールは最低二ヶ月です。それでも、行かれるなら紹介しますよ。」
と言われたので、しばらく悩んでいると家内が、
 「行かなくて後悔するより、行って後悔した方がいいよ」
と励ましてくれたので、行く決心をしました。
 5月の連休を利用して下見に行き7月から三ヶ月間、中国で鍼の治療しました。
 治療は月曜から土曜まで毎日約1時間程で、日本の鍼より何倍も太い中国鍼を眼の周りに、5、6本ずつ刺して、時折刺激を加えるのです。
 この治療は辛く、顔面蒼白になり我慢出来ずに中断することも何回かありました。
 また、中国鍼は太く血管を損傷し出血することもありました。
 この三ヶ月の治療で、「少しは良くなるかも」と期待していたので、変化がなかったので落胆しました。
 しかし、「もう1クール治療すれば何とかなるかも」と思い、次の年も二ヶ月間の治療をしましたが結果は同じでした。
 更に、藁にもすがる思いで、次の年も二ヶ月間の治療をしましたが、やはり結果は同じでした。

 休暇を取りながらの治療だったので、同僚に多大な迷惑を掛けたし、その間にも病気は進行していたので、同僚の手を借りないと一人前の仕事が出来ない場面が少しずつ増えてきました。
 そして、事務の仕事は進んで手伝ってくれるし、暗くなれば、そっと肩を貸してくれ、車で送迎もしてくれるようになり、今でも大変感謝しています。
 しかし、その時は援助受ければ受ける程、自分が情けなく、みじめに感じ、コンプレックスとプライドの間に埋没してしまいそうに感じる時がありました。
 そんな日々を送りながら、1日でも長く勤めなければという反面、早く辞めたいという気持ちが強くなり、その事を家内に打ちあけました。
 そして、私が47歳になった晩秋のある日、出勤する私の背中に「もう辞めてもいいよ」と家内が声を掛けてくれました。
 私は、うなずいて、同僚の車に乗り込みました。
 私は、その年の12月で職場を去り、病気休職を利用し退職することにしました。

 最初はホッとして安らいだ気持ちになりましたが、時間が経つうちに、何だか寂しくなり気持ちは、内へ内へ、心は深く深く沈み込むように感じました。
 家内の「人生は修行の旅」だとか「人間、何かを為すために生かされているのだから、何か始めたら」などの励ましの言葉は、私の心を傷つけるだけでした。

 それから数年間、ほとんど閉じ篭るようになりました。
 そんな私を救ってくれたのは、以前より入会だけはしていたJRPSの人達でした。何回か交流会に出席するように誘われ、参加する毎に、私のきもちは和やかになり、心は温かくなって来るのを感じました。 しかし、それと同時に自分が視覚障害者でありながら、視覚障害者のことやその生活の現状や社会環境などについて全く無知であることに気付かされました。
 それからは少しずつ、色々な事を勉強して、謙虚でありながらも前向きに生きて行こうと思いました。
 今では「人生、山あり、谷あり、谷底あり」と家内と笑えるようになりました。
 また、人生を楽しむ余裕も感じられるようになり、これからも自分をより豊かに出来たらと思っています。

 このような今の私の気持ちになれたのも、JRPSの人達は勿論、自分が視覚障害者になったからこそ出会えた人達の協力や心温まる支援のお陰だと大変感謝しております。
 以前、私の心を傷つけた「人生は修行の旅」や「人間、何かを為すために生かされている」という言葉は、今では座右の銘として私の気持ちを支え、励ましています。
 これまで私はみなさんから援助してもらうだけでしたが、これからは、誰かのために 少しでも何か手助けが出来たらと思っています。



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