「あるがままに」

N・A(女性 糸島市)


 「あーあ、私は光を使い果たしてしまった・・・」
 「大丈夫、目を補う脳の細胞ができてくるから」
の会話は私がまもなく還暦を迎えようとしたころです。

 思えば子供の頃は栄養失調をくりかえした。
 高校生のころには涙が止まらずに一週間はサングラスをかけて通学しました。
 やがて結婚をして、子供の洋服を縫っているとき針に糸がとおりにくいのです。
 眼科にいくと視力1.5と1.0でした。
 先生が、
「あなたはここにこられてもつける薬も塗る薬もありません、50歳になると不自由になるでしょう」
と大勢の患者さんのまえで言い放たれました。
 私は、
「眼鏡をつくりたいのです」
と言ったのが精一杯でした。

 この時、私はまだ病名をしらず、眼科へも通わず15年余りがすぎました。
 その間に、子供の頃からの願いでした日本舞踊を本格的に習い始めて名前も頂き、義母と主人にスポンサーになってもらい、溢れるほどの光を浴び、足が舞台の板の上をすべるときは至福のひとときでした。

 やはり先生が言われたとおり50歳頃から体力が落ち始めました。
 同時に視力と視野は比例して低下して、時よ止まれの願いは空しいものとなりました。
 他の病気で福岡大学病院に入院したときに、
 「気になるところはありませんか」
と聞かれ、階段の段差が分りにくいことや、暗いところが見えないことなどを話し、検査をした結果、
 「点字の勉強をしたらどうですか」
と、福岡市心身障害者センターを紹介されました。
 そこで障害者手帳をいただき、網膜色素変性症をやっと認識しました。
 多くのお友達と共にがんばりました。

 点字や歩行を訓練して萎える心に自信と勇気がわきました。
 主人の退職迄数年という時に結婚以来、共に暮らした義母が認知症になりました。
 在宅で5年間介護をさせてもらいました。
 これも網膜色素変性症でしたから、すこし残された光でどうにかお世話ができました。
 義母を送りますと、私の視力もおとろえました。
 真っ白になったり真っ黒になったりするので眼科にいきました。
 「この状態を失明といいます。」
 先生の言葉に観念しました。

 家にかえりついて、
 「料理は死ぬまで作るからね」
 その日の夕食はトンカツでした。

 キャベツのせんぎり・・・オーケー
 トマトのくしぎり・・・オーケー
 豚肉の味付け・・・オーケー

 お皿に小麦粉、パン粉、とき卵と、順序よくつけて、温度は設定どおりに油であげて、盛り付けは主人でないと美しくいかないので「お願いしまーす」と言えば、後は、おみそしるだけなのです。
 やっていける。
 今までやってきたことを続ければよい。
 ガンバレのりこちゃん、続けていると指先が敏感になり、驚いたことに家の中の配置が全て分かるではありませんか。
 但し自分で触ったことは記憶に残るのです。
 どんどん触って新しい自分のテリトリーを広げ直しています。
 お掃除もお茶碗を洗うのもみんな愛おしいほど楽しいのです。
 失明が近くなるほど鼻がききやたら匂いがききわけられるのです。
 失明してから嗅覚がするどくなり記憶ができたりして補う脳はできていますが老いもあるのでなんともいえません。
 失うものは大きいですが、パソコンを教えてくださるボランティアの方や新しいお友達に巡り会えたことは生涯の宝です。
 そして献身の主人に言葉にならないほどの感謝と幸せを感じております。


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