「長いトンネルの先にはたくさんの友がいた」

K・K (男性 鹿児島奄美)  

 
 私は昭和25年生まれの64歳です。
終戦後の生活困難、食料困難の時期を小学生、中学生と過ごしてきました。私は物心憶えた頃には、夕方になり暗くなると辺りがみえなくなっているものでした。

昼間には、はっきりみえて友達とわんぱくな遊びもしていました。
夕方になり陽が沈んでいくと心細くなるものでした。
友達は陽が落ちても遅くまで遊んでいるので私も少し気を許しているともう家路につくのが難しくなります。

家に帰る途中の木の間からこぼれている薄い明かりを頼ってかえります。絶えず眼は上をみながら家路につきます。
門には大きな木がありましたのでそこまでたどり着くと 「ほっ」と安堵したものでした。

42歳の頃、網膜色素変性症と診断を下されましたが、当時はこの病気については何の知識もありませんでした。31歳のときに借金をして自宅を新築しました。49歳になり3人の子供達は次々と成長し大学進学、 専門学校とお金はいくらあっても足りないときに職場に通勤できなくなり余儀なく職場を退職しました。

21歳に農協に就職し、退職時には所長の役を任されていました。退職後には農業をしていました。生産牛を15頭養い子牛を出荷していました。さとうきびやバレイショも栽培しました。耕運機は、前進で進むと作物を鋤きこむのでバック耕運で作物を足で確認しながら耕していました。

55歳頃になるとほとんど見えなくなり約3年間は不安とストレスで精神不安障害に悩まされました。夜も昼も心が不安になり落ち着かないのです。どうしようもない不安が突然襲ってくるのです。
我が家のどこにも私の落ち着ける場所がないのです。やるせない心の不安に毎日悩まされました。ストレスから、肩や首が痛いほど凝りました。

凝りの治療で香川県の病院で6ヶ月間入院しました。視覚障害者は一般病棟には入れないとのことで、1泊5000円の部屋に入院しましたが治りませんでした。なんとか自分の病気を治そうとの強い意思がありましたので東京や奈良県、大阪などの針灸院や精神病院などを3年間渡り歩きました。どこの病院でも私の精神病と肩や首の凝りを治すことはできませんでした。

私は健康に関する、デージーの図書読み漁りました。
すべてが、精神病と凝りに関する医学史ばかりでした。
この本の中に私を今日まで元気にしてくれた本があります。富山大学の阿保とおる先生の本です。薬をやめるとすべての病が治るとの本です。私は精神病の薬を全て棄てました。これにはいろいろと自分なりに努力と苦労がありました。
あとしばらくで もとの体調に戻る確信があります。

あと 私の視力障害になってからの失敗談です。
 40歳 農協の基礎堀した深さ2メートルの所に落ちました。
 45歳 町会議員さんの当選祝い行く途中 約1.5Mの川に落ちる。
 46歳 乗用車で(相手も同じ)交差点で出会いがしらに衝突
 47歳 軽トラック運転中に約2Mの崖下に落ちる。
 
他にも上げれば限がありません。若い頃は狩猟をしたり、囲碁を楽しんだり、盆栽も趣味のひとつでした。 いろいろな困難を乗り越え、現在は見えないことを受け入れることができるようになりました。 
視力を失ってから新しい友達のわが広がり毎日を楽しく過ごしています。

今後は 何か一つでも仲間のためになる事ができればと思っています。
私が55歳で失明してからの、歩いて来た路はそれはそれはまるで地獄の暗い暗い谷底の、ながーい、ながーいトンネルでした。
それでも私はなんとかして、この地獄から抜け出して、もとの楽しい生活に戻ろうとの意思は強く持っていました。不安や辛いストレスをもちながらにも、昨年の4月に、福岡視力障害センターに入所しました。

今に、私が思うことは、毎日をあるがままの、自分で楽しく生きることと思います。どんなにつらいことがあっても、いつかは必ずに素晴しい日々が訪れてくることを身をもって知ることが出来ました。今は毎日が、楽しくて楽しくて、たまらないほどに嬉しい気持で過ごしています。

文頭に戻る
タイトルへ戻る