『色素変性症と付き合って』

                       (男性 福岡市西区 30代)

私が網膜色素変性症の診断を受けたのは、平成20年頃でした。

 当時の私は高校を卒業してずっとフリーターの生活を続けておりましたが、ようやく小さな警備会社へ就職出来て1年半ぐらいの時でした。
福岡市と北九州市のスーパーの施設警備が主な業務で、駐車場での車の誘導がメインでした。仕事もシフト制で、その日によって就業地が違うため、車での移動が必須でした。
 
 私の目がおかしいと気づいたのは自分自身ではなく、当時勤めていた会社の社長でした。私はその会社に勤めて1年半くらいの間で、2度も車の運転で事故を起こしていました。1度目は自損の物損事故でしたが、2度目は道路横断中の歩行者をはねてしまったのです。
幸い大きな怪我ではなかったようですが、1年半の間に2度も事故を起こした私に異変を感じた社長は、私に眼科の受診を命じました。
 
 同僚に付き添ってもらい、自宅近くの小さな眼科を受診して、そこで初めて視野検査を受けました。検査を終えて控室で待っていると、診察室から先生の「ウワッ」というような驚きの声が聞こえてきて、その後すぐに私が呼ばれました。
 診断結果は網膜色素変性症で、既に中心視野と周辺視野の一部を残して半分以上を失っているという診断でした。少し驚きもしましたが、まったく実感がわきませんでした。

 確かに私は幼少の頃に一度斜視の手術を受けてましたが、当時の私は左右共に1.8以上の視力でした。ちょっとした夜盲は感じてましたが、むしろ他の人より目が良いとすら思ってました。しかしその後に大きな病院も受診しましたが、結局は診断結果は変わらず、そのまま障害者手帳の手続きまで勧めました。

 当然会社は辞める事になり実家暮らしでもあったので、障害年金が出るようになってからは経済的に困るわけでもなく、部屋に引きこもるような生活をしてました。元々インドア派だったので、パソコンとネットがあれば苦でもありませんでした。
 
 私自身が見え方の異変を感じ始めたのは、診断を受けて3年くらい経った時だったと思います。画面が眩しく感じてきて眼が疲れやすくなってきました。楽しくやっていたパソコンも疲れるようになり、外を歩いても目がかすんでるような状態でした。家にいてもつまらなくなり、外に楽しみを求めて碁会所に通うようになりました。学生の時にかじっていて、そういったゲームも好きな私は毎日のように通いつめてました。今でもたまに遊びに行ってます。そこで同じように視覚障害者の方と出会い、市の補助で補助具や同行援護の事を知った私は早速受給者証を取得し、同行援護をお願いするようになりました。

 既にその頃には、右目に併発した白内障の手術をしていて、両目の視力も0.1以下にまで落ちてました。同行援護を利用するようになり、それまでまったくなかった視覚障害者の情報や知識がどんどん入ってくるようになりました。
色々な会にも出席するようになり、JRPSには今年の2月の九州総会に初出席しました。そういった場で様々な人との出会いで、社会への再復帰・再就職の意欲が沸いてきました。2月にはサービス利用計画をお願いし、4月には第一歩として、国立視力障害センターで自立訓練を受けるようになってました。10月には退所し、今は就労継続支援でテープ起こしの仕事をしてます。
 
 この掲載原稿の依頼を受けて、改めて自分の病気が見つかってからの人生を振り返ってみましたが、まったく現金なものだなと思います。病気が見つかって6年以上、引きこもったりフラフラしてたりしてましたが、ちょっとしたきっかけと出会いでここまで変われるものなのかと思います。この1年、たくさんの方々の温かいお言葉や支援でここまで変わる事ができましたが、まだ世の中には1年前の私のような人がたくさんいらっしゃると思います。そういった方々への情報供給やきっかけ作りのシステムが出来ればと思います。
 
 また、網膜色素変性症は遺伝もあると聞いております。先日、お子さんが網膜色素変性症で、伝えるかどうか迷っているという方を御見かけしました。人間は意外と強く、変われる可能性は無限にあると思います。私自身はまだ変化の過程であり、どの方向に向かうかも定まっておりませんが、1年後の自分の変化とその時に感じる可能性を楽しみに成長を続けられたらと思います。

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