『釣りと私』

                         ( 男性 T・I)

 40年余りの昔のことである。当時私は、古来から伝わるテンカラと呼ばれる渓魚(ヤマメ、イワナ)の毛バリ釣りに熱中していました。
京都を流れる由良川上流の京大演習林の渓流を釣り登っていました。その日は7月上旬の日差しの強い日で、渓流釣りは不向きの日よりでした。やり始めてから1時間程した頃格好の瀬が目に入った。その河原はゆったりとした広い砂地であつらえ向きの足場になっており、毛ばりを飛ばすには絶好の場所であった。

 私は最初の一振りを強い流込みの復流に投じた。竿先を二、三度あおって毛ばりを流れにのせた途端、尺余りのヤマメが空中に踊り上がった。思わずドキリとする。ダイナミックなジャンプであった。ハッシとくれた合わせはむなしく空を切った。

夏の朝日を受けて明るい流れの上でその魚体は、眩しくきらめき音を立てて瀬に落下するとたちまち消えた。空合わせであった。初めて見る大物に私の胸は高鳴り、背後の木の枝に絡まったより糸をはずす指先は震えていた。草むらに座り込んでは気を静めようとわざとタバコをゆっくり吸った。気を静め、気合を入れて二度目の挑戦である。同じ場所を狙った。息詰まる一瞬であるが、出ない。

何度も繰り返し打ち返すが、魚は何の反応も示さなかった。み捨てて立ち去るには惜しい大物だったので私は執拗に毛ばりを打ち返した。なかば打ちしおれて諦めかけた時、こちらの気のゆるみを見透かした様に、出し抜けにがばっと水しぶきを上げて、真白い魚の腹が踊りくねった。ゴツンと軽く叩く様なひびきが手元に伝わった。すかさず合わせたつもりだったが、もう間に合わなかった。ほんの一瞬、何分の一秒かの出来事であった。それっきりその魚は二度と姿を見せなかった。
 
 この由良川での大型ヤマメとの対決は釣り逃がしただけに、特に強い印象となって40年経った今でも鮮やかに思い出すことが出来るのです。
 
 この頃(20歳代)には川面を流れる僅か2cm程の毛ばりも、それに飛びかかるヤマメの姿も私の眼ははっきりと捕らまえていたのだった。
まさかこの眼がこんな大病を患っていようとは思いもしませんでした。徐々に視力が落ち始め、34歳の時に網膜色素変性症と診断されました。予告通り40歳半ばで車の運転を諦め、生涯続けようと思っていた渓流釣りも断念せざるをえませんでした。

しかし、憧れて慣れ親しんで来た山の釣りを諦めた私は、やがて心惹か
れた自然のままの山野への想いがつのっていったのです。根雪の残った早春のワサビの新芽、風薫る新緑の五月、谷川の瀬音、鳥のさえずり、川面の上で乱舞するカゲロウの群れ、今にも降ってきそうな壮絶なまでに美しい星空等々・・・・・・・。
 
 ちょうど芭蕉の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」そんな心境でした。
そんな折、一頭の薩摩犬が家族の一員となり、近場の山や野原に出かる様になりました。そこには山奥とは違った自然があり、雑木林、竹林を歩き回り,早春には竹の子を探し、秋には自然薯を掘る面白さに引き込まれていったのです。暇さえあれば風の日も、雪の日も野山を散策する日々が16年続きました。しかし、愛犬の死と視力の低下に伴い、野山の散歩もおぼつかなくなりはじめました。

 その頃、ふと耳にした医療講演会(九大病院村上先生)に参加し、JRPSの存在を知りました。共に同じ悩みを語り合え、分かち合える仲間との出会いは、大変な喜びでした。叉その悩みに打ち勝って明るく前向きに生きている仲間のいることも大変な励みになっています。
 
 今後はJRPSを発展させ、私たち自身の力で治療法を確立し、変性した網膜を再生し、失った視力を取り戻しましょう。
その日の為に生きがいを持ち、ボケないように健康に注意し、身体を鍛ておきましょう。再びあの由良川の、あの瀬で毛ばりを飛ばしている自分の夢を見ている今日この頃です。

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