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 ★創立20周年記念講演

☆寄 稿
◎昨年は、JRPS群馬の創立20周年という、記念の年でした、台風のため、記念式典は中止となってしまいましたが、
講演をいただく予定でした、初代支部長の吉岡直子さん、二代目支部長の小林一男さんの20年を振り返って、会報誌に寄せられた原稿を、掲載します。

◆初代支部長の「吉岡直子さん」から創立20周年記念式典で講話をいただく予定でした文章をお預かりしています。
ご本人の許可をいただきてこのJRPS群馬通信に掲載をいたします。
JRPS群馬を立ち上げた22年前の準備からの様子がわかりますので、参考になさって下さい。


本文
 「JRPS群馬の20年をふりかえって」
 皆さんこんにちは。ただいま、会長の市橋さんよりご紹介をしていただきました吉岡です。
 JRPS群馬創立20周年記念おめでとうございます。
 この度は、市橋さんから会の始まりを話して欲しいと言われ、ここに私などが来るところではないと思っていたので、何度も断りました。すっかり記憶も衰えて、今話さなければならない言葉さえ忘れてしまう年頃になったのです。そのあたりの事情をご理解下さい。
 JRPS群馬の誕生まで本題は、これからです。

 1988年、全国紙を見て、中国湖南省まで半年の間、治療に行ってきました。なんと30年も前の話で、次の年、日本は平成の元号になっていました。それまでは自分一人だけが患者だと思っていました。情報なんて何もないんですから、初めて自分以外の患者さんを見たので、うれしかった。でも、ショックもあった。だから、みんな堰を切ったように話した。話しは、止まらない。 
 それから7年程後に新聞記事に目が止まり、千葉大で患者の会「JRPS」を見つけました。そこには実在の大学病院名と教授、そして具体的な内容「あ、あ、これは本物だ」と、思いました。それから2年後だったか?
 本部の総会に参加してみました。会場内で小野塚ゆか会長(初代会長)さんに挨拶をしたら、いきなりハグされてビックリ、田舎のおばちゃんだもの、こんなの慣れてないもの。本部席で紹介されて、会長さんから「今ね、支部を作るのに日本中に行ってるの、群馬もまもなく行くからね!!」と。言われました。
 記者クラブに知らせたり、会場を確保したり、患者さんに連絡をする等のとても大切な事を言われているのに緊張して「ハイ、ハイ、」としか返事ができませんでした。
 ほどよくして東京支部長の釜本さん(二代目会長になる方)と近畿代表の国さん、神奈川支部長の中村さん、栃木支部長の山口さんが来てくれました。群馬の患者さんは、私を入れて16名。支部長さんたちは、私たちの様子を見ながら落ち着いたところで、釜本さんが「今日 ここで出会った人達とJRPS群馬連絡会を立ち上げましょう」と、話してくれました。
 その2年後、本部より群馬の活動が正式に認められ、JRPS群馬支部となりました。(平成11年春)。
 そしてこの会に関わっていただいた小林さん、市橋さん、役員さんそれからこの会に関わっていただいたすべての皆様に支えられ、育てられたのだと思います。 ありがとうございました。
 ここまで私の拙い作文を聞いていただき、只々感謝しています。心からありがとうございました。
 令和元年10月12日 吉岡 直子

※ご本人の希望あり、なるべく文書に手を入れてませんでした。一部加筆したところがありますが、最小限にとどめております。(市橋)


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JRPS群馬とともに
 小林 一男
 私はJRPS群馬の会長(支部長)を12年間務めさせていただきました。忘れられない思い出は、本当に数限りなくあります。
 私の網膜色素変性症の初期症状は、視野狭窄が極端に強かったように思います。当時、私は会社勤めで、専務の配慮で、有名な慶應義塾大学医学部眼科学教室の小口芳久先生を紹介されました。診断の結果、網膜色素変性症という難病である旨が伝えられ、小口先生からは患者・支援者・研究者の三者が一体となり設立されたJRPSの会員になることを勧められました。
 私は目の病気のために車の運転をやめ、技術職を離れて事務系の仕事にまわることになりました。大変辛い思い出ではありましたが、その後、退職までの7年間の長きに渡り、妻が会社まで送迎をし、陰日向になり私を支えてくれたことは、感謝の念に堪えません。
 私はJRPS会員になり、この目を治すことを目標に皆さんと努力することを誓いました。
その時、群馬にも同病者が何人かおり、1998年7月に群馬の地(伊勢崎)でRP連絡会を立ち上げました。会長は吉岡直子さんでした。
 連絡会の活動では、当時としては初めて慶應義塾大学の小口先生に群馬で講演をしていただきました。
この活動内容はJRPS本部へも伝わり、国リハの久保明夫先生の多大なる後押しのお陰で、簗島謙次先生のご後援を得て、2000年8月5日にJRPS群馬支部が全国で11番目の支部として認められました。
 私は2003年の4月に支部長を引き受け、当時の小野塚有可JRPS会長に指導していただきましたが、その頃は網膜色素変性症という言葉自体タブーであり、治らないこの病名を口にすることさえできない風潮でした。
 私が支部長として臨んだ2003年の総会より、狩野浩志県議にお世話になって群馬県とのつながりが密になったように思います。そして狩野県議のアドバイスもあり、私は群馬県議会を通じて網膜色素変性症を治すための請願を申請しました。私の請願文は全国で初めて国会に提出され、衆参両議長に要望を伝えることとなりました。
現在iPS細胞を通じて網膜色素変性症の治療に力を注がれるようになったことは、元理化学研究所の高橋政代先生のお陰と心より感謝しております。
 また、忘れがたい思い出は、2015年9月26日に「世界網膜の日in群馬」を前橋市民文化会館で開催したことです。群馬の地で、全国から選ばれた研究者3名に対して研究助成金の400万円が支給されました。
懇親ツアーでは伊香保温泉に全国から多くの方がご参加くださり、楽しい時間を過ごしました。役員一同が約2年前から何度も打ち合わせをし、お客さまをおもてなしするための知恵を絞り、頑張ってくれたお陰です。
 私は2013年11月、支えてくれた妻を病で亡くし、その後約2年間独り身の生活で支部長としてJRPS群馬を運営してきました。
その後、私は新しいJRPS群馬を市橋会長に託すことにしました。今後も相談役として市橋会長と共に、また皆さんとより良いJRPS群馬を育てていきたいと思っております。
 今後ともJRPS群馬をよろしくお願い申し上げます。


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