あぁるぴぃ広島 16号


■巻頭言■

 JRPSとの出会いと私の体験
  広島県支部 幹事 福山市 岩崎 周市


 皆さん こんにちは 福山市の岩崎と申します。
今年3月で還暦を迎えました。お蔭で娘2人いてみんな市内に嫁に出しました。孫 は5人います。40代の終わりから おじいちゃんをしています。現在は妻1人、母 1人の3人家族で細々と生活をしています。
思い出せば 私の記憶では小さい時から夜盲症(とりめ)でした。私の幼少の時代 は裸電球数個での生活で、風呂場はアルコールランプがついていたのを思い出しま す。勿論水道はありませんでしたので、井戸から水を汲み上げていました。そんな環 境で育ちましたので、夜は外出する事は殆どありませんでした。
その時は皆が夜暗いのに何故動き回れるのだろうと不思議に思いました。自分で は生まれつき夜は見えていなかったので見えていないと言う事は感じませんでした が、段々成長とともに、自分は皆とは違うんだと思うようになりました。
 小学校の頃、天体望遠鏡で星を見る学習がありました。私は行きたくないと言う と、親に叱られました。親は私が夜 目が見えないのは知っているのに、今夜は月が 出ていて真っ暗く無いので行けと言うのです。私はダダをこねて、親を困らせまし た。近くの電気屋で懐中電灯を買ってもらい、行く事にしました。学校の校庭に行く と懐中電灯を持っているのは私だけです。みんなが珍しがってたらい回しになりまし た。お蔭でみんなは順番に並んで星を見たのですが、私には順番が来ませんでした。 そうなんです。並んでいても、前が開いているのに気が付かず、後の方は私の前に列 を作ります。気が付くと一人ぼっちでポツンと立っているのです。家に帰り、星はど んなだったかと聞かれても、きれいで良く見えたよと答えました。そんな思いもしま した。
 眼科に連れて行ってもらったことも一度もありません。これも小学校の時、急激に 目が開けられないぐらい激痛がきて、真っ赤になりましたが、これも「目に何かが 入ったのだろう。」と言って、親に目を見てもらい、何も入っていないと言い、眼科 に連れて行ってもらえませんでした。我が家も父親が元気でなかったので、生活面で は苦しかったようです。その当時は学校から帰ると家の手伝いは当たり前でした。
 そして、中学校の時、15歳で原付の免許を取得、18歳で軽自動車、普通車、大 型と免許は取得しました。昔は夜も車のライトだけを頼りに運転もしていました。そ の当時は視野もあり、霧もかかっていませんでしたので、長距離の運転も出来まし た。年と共に車に乗るのが怖くなってきました。先ず、トンネルの暗さ、雨降りの怖 さなど感じながら56歳まで運転をしていましたが、人身事故も2回起こし運転は止 めました。
  目の異常に気が付いたのは、平成4年の大阪でのことです。人ごみの中で人にぶ つかり、歩きにくく、階段が判りにくく、もちろん、車の夜間やトンネルが見えにく く、暗く、今までとは違い、段々と目が見えにくく感じるようになりました。
  そして、F眼科に行き診察をしてもらいましたが、白内障が出ていると言われ、 まだ手術の時期ではないと言われました。その時は網膜色素変性症ということは知ら されませんでした。毎月1回ぐらい2年間ぐらい通ったようです。そして白内障の手 術をするには何処が良いかなと思っていましたら、友達がK病院で手術をして経過も 良く、点眼薬もいらないし、通院もしなくてもよいと言っていたので、私もK病院で 診察をしました。そこで初めて網膜色素変性症で白内障も有りますが、まだ手術の必 要はありませんといわれました。いよいよ私の目の前の霧が深く感じるようになり、 白内障の手術が上手と言われるM病院に行き診察を受けました。もう少し経過を見て 手術しましょう。但し今よりは良く見えるとは思いますが、何とも言えませんといわ れました。その病院で平成10年に初めて手帳を取得する事になりました。いきなり 2級です。手術は翌年に受けました。当初は以前より良く見えましたが、1 2年で また霧の世界となりました。それからはついに車の運転ともお別れです。
  しかし会社勤めは39年勤務、娘2人も結婚しましたので、57歳でリタイヤし ました。この若さで退職して、これからの人生が長いのに どうするのかと心配もし て頂きましたが、お蔭を持ちまして平成14年10月に、網膜色素変性症協会が有るのを たなかメガネ店で知る事が出来ました。そして佐藤支部長さんの電話番号を教えても らいました。佐藤さんはどんな方だろう?若い方、年の方、怖そうな方? いろんな 思いの中、手を震わせながら思い切って電話をしました。「もしもし佐藤です。」と 言う少し元気のなさそうな声で出られました。こうこうこういう事で、お電話させて 頂きましたと言うと、声も明るくなり、会の説明や行事と参加者の状態も教えて頂き  私の目の前が急に明るくなりました。直ぐに参加手続きを取って頂き入会させても らいました。そこからは私の人生が大きく変わっていきます。行事等が楽しみで待ち どうしかったです。最初の行事参加が福山すこやかセンターで開催された料理教室で した。皆さんの楽しそうな笑顔と会話にはびっくりしました。私の想像していた障害 者とは全然違いました。何処が障害者なのだろうと思うぐらい皆さん面白く元気と勇 気をいっぱいもらいました。 そしてパソコン教室との出会いもありました。既にパソコンのワード、エクセルは 使っていましたが、メールは初めてでした。皆さんに勧められてメールが出来るよう になりました。お蔭様で今の私にとってはパソコンなしの生活は考えられません。こ の喜びは是非とも他の視覚障害者の方に伝えたいと思い、今でも毎週パソコン勉強会 をしています。パソコン半分おしゃべり半分でとても楽しくやっています。
でも最近は目の状態も進行し、ついに私が続けてきた百姓(ひゃくしょう)の方も 42年間の幕を閉じました。残念です。 私たちは自分で出来る事が、確実に段々と減少しています。今 出来る事を 出来 るうちに 出来るだけ やりたいと思います。 そんな思いもあり、ピアカウンセラー受講生を中心として平成16年4月より障害者の 集まりとして『くるみの会』も立ち上げました。(会報14号で紹介済み) 1月現在 までには57名の参加者もありました。定例会には20から30名の視覚、身体、精神 障害者などが毎週集っていました。お蔭で当時は月に10回は福山に出かけていまし た。
しかしながら この会も残念ながら1月末で閉じることになりました。参加者も段々 と増えてきて、障害の程度も違い、いろんな考えをお持ちの方もおられます。会の進 行にも苦労をしてきました。会のあり方についての見直しの時期に来ていた矢先の出 来事です。この会に沿わない方もおられたようです。
 なぜ障害者の集まりをかき混ぜないといけないのでしょう。なぜ個人攻撃をしなく てはいけないのでしょうか?なぜ脅迫の電話をかけないといけないのでしょう。テー プにまで取らないといけないのでしょうか?なぜ障害者という弱者を潰しにかかるの でしょう?そこまでしなくても、趣旨に沿わないのなら参加してくれなくても良いの です。お互いに気を使いながらの会の進行はしんどいばかりです。続ける意味があり ません…というわけで残念ながら平成17年1月末に会を閉じることとなりました。こ の会を支援してくださった関係各位様には申し訳ないとは思いますが、これを回避す るにはこの方法しかありませんでした。私にとってこの事が人生において深い傷とし て残りました。多くの出会いも有りましたが、皆さんも残念ですし、悔しいです。や はり無理をしていたのでしょう。障害が違うと言う事はやはり難しいのです。力不足 で反省です。
 私は以前のように、同じ苦しみや悩みが分かり合え、信じあえる仲間だけと付き 合っていきます。
  何と言ってもこのJRPSの仲間が一番楽しく、自信を持って他の障害者に自慢 できます。私は この会に出会ったお蔭で、素晴らしく喜びを感じています。この行 事が一番楽しく思います。支部長さんを始め役員の皆さん、会員の皆さん有難う御座 いました。感謝申し上げます。そして まだこの会が有るのを知られない方々のため に私の出来る事をさせて頂きたいと思います。   長々とまとまりの無い文を最後までお読み頂きまして有難う御座いました。今後 とも宜しくお願い致します。



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