あぁるぴぃ広島 10号


■会員の声■

3 四国巡拝(その三)

           御調郡向島町 Sさん

 巡拝も三年目に入り,今年は主に伊予の国を回るが、 一部讃岐が含まれる。伊予は 昨年の土佐と比べて各札所が割合近くにあることと、 それに向島から最も近いので、 二泊三日で二十五ヶ寺を巡るちょっと忙しそうな旅になり そうだ。二日目当たりから 天気が悪くなりそうな気配で、少々気にしながらの出発で ある。四月二十二日早朝、 前日までの暖かさが一変して風が冷たく、身体を固くして バスを待つ。
 しまなみ海道を渡って四国に入ると、一段と風が冷たく 身を縮めて最初の札所、延 命寺へ。バスを降りるとすぐそばの池に大賀蓮があって 沢山の実が成っていた。ここ には高さ二十余メートルのつぶら椎の銘木があると聞いて いたが、残念ながら見つか らなかった。南光坊は四国霊場で唯一「坊」の名が付いて いて珍しい。もとは大三島 にある大山祗神社の別宮であった。泰山寺には山門がなく、 石段を上がったところの 両脇に石柱が立っているのは大変珍しい。仙遊寺は高台に あって、今治市内から来島 海峡までが一望に見渡せる。
栄福寺には、大きなお地蔵さんがあり、一言だけお願い すると叶えてもらえるとかで、拝む人が多かった。 国分寺には伊予の名椿、唐椿の大 木があり、ちょうど花どきで、赤い花が咲いていた。
 香園寺は、これまで回ってきた札所とは全く違って近代的な コンクリート造りの大 聖堂といった趣があり、本堂と大師堂を兼ねている。 中に入ると、沢山の椅子が並べ てあり,これに腰掛けて拝むようになっていて、 何だか妙な気分である。子安大師も あって、子供を授かった印に収められた赤ん坊の写真が 鴨居や壁に沢山貼ってあっ た。宝寿寺から吉祥寺へ。境内には丸い穴の空いた大石が あり、本堂前から目をつ ぶって願い事を唱えながら近づき、金剛杖の先が穴に通れば、 心願が成就するとい う。この石は、なんでも石槌山系黒瀬山の滝つぼに あったもので、滝の水にうたれて 丸く穴がくり抜かれたのだそうだ。

 前神寺は、深山幽谷の雰囲気に包まれた寺で、 石鎚山修験の総本山としても知られ ている。次いで、石鎚山の中腹にある横峰寺へ。 マイクロバスに乗り換えて30分ほ ど走って、そこから下り坂をかなり歩いたところにある 札所だが、住職によるとこの 車が通れる農道ができる迄は、麓から遍路道を時間をかけて 登らなければならない難 所であったそうだ。途中、あちこちに山桜、境内には大きな 海どうの木が花を咲かせ ていた。今夜の宿は、石鎚山の麓にある民宿である。
以前は、石鎚山信仰の行者がこ の宿に泊まって、ここから歩いて登ったというが、 今ではロープウェイを使って途中 まで行くようになった。夜中,窓がガタガタと鳴る強風、 それに雨もかなりふってい て、明日のことが気になったことだ。

 二日目は、曇天の空を仰ぎつつバスに乗り込む。
浄土寺、山門の脇の八重桜が満開 の繁多寺を回って、石手寺へ。道後温泉の近くのため 観光客も多い寺である。ここの 宝物館には衛門三郎の小石が展示されている。衛門三郎に ついては、次のような伝説 がある。
 弘法大師が四国巡礼されたとき、荏原へ立ち寄り、 家々を訪れて布施をお願いし た。この村には河野家の一族でどん欲な富豪の衛門三郎と いう者がおり、大師が門前 で布施を頼んだ時、三郎は大師の持っていた鉄鉢をたたき 落とした。その鉢は八つに 割れ、大師の姿も見えなくなったという。衛門三郎には 八人の子どもがあったが、そ の翌日から子ども達が次々に死に、八日間で八人の子どもが 亡くなってしまった。さ すがに強欲で冷徹な三郎も衝撃を受けるとともに、自分が 乱暴した僧侶が弘法大師で あったことに気付く。懺悔の気持ちを持ち、大師を追いかけ、 四国各地を数年をかけ て廻るが、疲れで病に冒された。
阿波の焼山寺のふもと だったという。死を待つばか りとなった三郎の前に大師が現れた。三郎は今までの非を 詫び、来世には国司の家に 生まれたいという望みを残して死んでしまった。
大師は道ばたの石をとって衛門三郎 と書いて、左の手に握らせた。 翌年、道後の領主、 河野息利の妻が子どもを生ん だ。その子は左手を固く握って開かないので、父母は 心配して安養寺の住職に加持を してもらうと、手を開いた。すると中から石が転げ出て、 石には衛門三郎と書いて あったそうだ。その子は十五歳で家督を継ぎ、人民を 慈しみ偉大な功績をあげたとい う。そして河野家に代々伝わるその石を、のちに 河野家の菩提寺、安養寺に納め、後 年その故事にちなんで石手寺と称されるようになった。 
衛門三郎と刻んだ石は玉の 石と呼ばれ、寺の宝となっている。 この衛門三郎の伝説が 遍路のはじまりとして広 く知られている。
 西林寺、次いで衛門三郎ゆかりの浄瑠璃寺と八坂寺へ。
八坂寺への途上、山の斜面 に珍しい黄色のツツジが咲いており、また参道には沢山の 牡丹がきれいであった。衛 門三郎の生家跡に建てられた番外の大師堂を巡って、 円明寺へ。ここには日本最古の 納め札があるのだそうだ。納め札は、年月日、氏名、 願い事などを書いて札所に納め るもので、古くは板の物もあったらしいが、現在は紙製だ。
この納め札は,銅製で江 戸時代に納められたそうだ。そして、これを発見したのは 大正時代に遍路を していた アメリカ人というから面白い。大師堂の横に石の マリア像があった。キリシタン禁制 の時代に、かくれ信者がここにお参りしていたのを、 寺では黙認していたというから 時の住職の心の広さと人間の大きさには舌を巻いてしまう。 太山寺を回って、今夜の 宿、道後温泉のホテルへ。昨年泊まったと同じホテルだ。

 三日目は三角寺から。
タクシーに分乗して急な山道を登るうちに霧で視界が遮られ てしまう。着くと急な石段が数十段あり、登り詰めた所の 山門に釣鐘が下がってい て、これをついて煩悩を落としてから、お参りするように なっているが、こんな札所 は初めてだ。 
 ここから讃岐の国である。雲辺寺は、 標高九百二十七メートルの四国霊場中最も高 い場所にあって、四国高野とも呼ばれる。百人以上も乗れる ロープウェイに乗ると、 間もなく深い霧の中に入り周囲が見えなくなった。
山頂駅から少し下った所に雲辺寺 はある。ロープウェイができる以前は、麓から歩いて 登っていたというから指折りの 難所であったことがよく解る。少し歩くと道の脇に 香川と徳島の県境の印があった。 つまり雲辺寺は讃岐の札所ということになっているが、 実際は阿波の国に所在してい ることになる。次の大興寺には、以前は真言宗、 天台宗二宗派の修行場であったそう で、大師堂も二つある。我々は、言うまでもなく 向かって左側の真言宗の大師堂をお 参りした。ここには、高さ二十メートルを超えるかやの 大木があった。かやの木の碁 盤や将棋盤は最高級とされ特に柾目のものは数百万円も するものもあるが、この木で 一体いくつの盤ができるだろうか、想像もつかない 大きさである。  本山寺にはこんな話が残っている。天正のころ四国全土を 平定しようと土佐の長曽 我部元親の軍勢が攻め入り、寺の境内に進駐しようとした。
ときの住職がそれを阻止 したため兵は一刀のもとに切りつけた。ところが住職は 倒れもせずに拒みつづけた。 一人の武士が本堂に入り、開いた厨子の中で阿弥陀如来が 右手に血をしたたらせて 立っていたという。驚いた武士たちは境内から退き、伽藍は 安泰であった。伊予、讃 岐、阿波の多くの寺が長曽我部元親によって焼かれたなかで、 この寺は兵火をまぬが れて今日に至っている。今回最後は、神恵院と観音寺である。 神恵院の仁王門の柱に は、六十八番と六十九番札所という看板が出ている。
一つの境内にふたつの札所があ る一寺二札所。納経所も次の観音寺と兼ねているという、 非常に珍しい構えである。 神恵院は、以前来た時とは違って近代的な本堂に造り 替えてあった。また大師堂も改 修中で仮のお堂でのお参りであった。
 二日目、三日目とも曇天で時折り雨が落ちる中での お参りであったが、不思議なこ とにどの札所でも、バスを降りると傘を使うほどの降りでは なく、ほんとうに有り難 かった。この時季、どこへ行っても様々な花が咲いていて、 我々一行の心をなごませ てくれた。どこの寺だったか憶えていないが、すばらしい 石楠花の花があった。牡丹 のようにふっくらとした厚みのあるピンクのもので、 近くまで行って手に触れること ができて、とても印象に残っている。石楠花は、我々が 住んでいる温かい平地では、 いい花を咲かせようとしても無理である。また、いくつかの 札所では、お経をあげて いると、すぐそばまでうぐいすがやってきて、いい声で伴奏を してくれたのも大そう 気分がよく、「ありがとう」と心の中で礼を言いながらの 読経であった。
 今年もまた、うっとおしい天気にも拘わらず、清々しい 気分で旅を終えることがで き感謝また感謝。なお、各所の風景描写などが私が見た ように書いているが、あれは 妻から聞いたもので、実際には、私にはほとんど見えて いないのである。



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